細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

『慶長日件録』に出てくる細川家関係者③


なぜかシリーズ化してきた(笑)
パート①→『慶長日件録』に出てくる細川関係者について調べてみた - 細き川に溺れたい
パート②→『慶長日件録』に出てくる細川家関係者について調べてみたパート② - 細き川に溺れたい


これまでの記事では、国会図書館のデジタルコレクションの『慶長日件録』のおおよそ前半部を眺めてきました。
でもけっこう古いし、ところどころ翻刻間違っているのでは?と感じていたりした(古文書読めんオマエが言うな)
そんな折、『史料纂集』というシリーズの中に「慶長日件録」もあることを知りました!
早速図書館で借りてみた。

ちょっとした違い

まずは、人物を指すところにわかる範囲でルビで人物名称が書かれている。
さらに、上欄には日記の内容の一部の概略が掲載されている。
これ、日本史とか戦国時代のことに詳しくない私みたいな素人にはありがたい仕様ですわ〜

だが、しかし・・・

私が知りたい「全斎」が誰なのかは書かれてなかったぁぁヽ(;▽;)ノ
さらに言えば、デジタルコレクションの方では「妙庵」ってなっていたところが、「好庵」ってなってたぁぁぁヽ(;▽;)ノ

うわぁぁぁん裏切られた気分wwwwwwwww

えーーー?妙庵じゃないのぉぉ??
ネットで検索しても、この時代に該当しそうな「好庵」なんてヒットしないんですけど!?

あ、しかし「妙庵」が出てこないわけではない・・・

  • 「慶長十一年正月十九日条」には「三男千代丸依發熱妙庵召遣、則来入、次全斎来入」

との文があり、「妙庵」って出てくるやん!?しかもまた全斎と近いやん!?
他にも「慶長十一年八月四日条」等、数カ所に「妙庵」が出てくる。
もぉぉ、わけわからんwwww

全斎で気になるところ

『慶長日件録』を眺め始めた当初は、幽斎は出てこないわりに全斎はよく出てくるので、もしかして誤字かなんかで全斎=幽斎では!?みたいに思ってましたが。
結局「幽斎」は「幽斎」で少ないながらきちんと記事に出てきたことで、書き分けてるし違う人物なのか・・・となり。
前の記事でも書きましたが、もしかしたら全斎は医療関係者かもなと思わせる記録もあるので「幽斎さんとは違うのかしら・・・」とも思うところはある。
でも、逆に「幽斎さんだったらしっくりくるな」みたいなところもあるのよ・・・?

  • 「慶長十年十月二十一日条」には「暮天家君へ参、次全斎へ行、於 禁中百首御當座有之云々、十人各十首充云々」
  • 「慶長十一年七月九日条」には「全斎豊前下国筮勘之」
  • 「慶長十二年正月八日条」には「全斎豊前へ下向」
  • 「慶長十二年四月十四日条」には「全斎豊前より帰宅」
  • 「慶長十二年五月十四日条」には「巳刻、全斎、豊前へ下国」
  • 「慶長十二年十一月十六日条」には「全斎従豊前帰宅」

一つ目の記事は、禁中での歌会のことを「家君=清原国賢」もしくは「全斎」から聞いたっぽい感じだし。
二つ目〜六つ目からは「全斎」が何度も「豊前」に下向していることがわかる。
この時代の和歌関係の権威といえば言うまでもなく幽斎さんですし、この時代の豊前は忠興が入国し治めているわけで、幽斎さんも何度か豊前を訪れてはいるのです。
・・・・・・ね?(ね?じゃない)

『慶長日件録』には、梅印元冲が亡くなったこと、秀賢の息子たちや妹が亡くなったこと、中院通勝が亡くなったことなど、身近な人の死が書き留めてられている。
なので、もしかして「幽斎」もしくは「全斎」の死も記録されているのでは!?
と期待したのですが・・・・
残念ながら慶長十五年は「八月十三日条」までしかないらしく、幽斎さんが亡くなった”八月二十日”の記事は存在していなかった・・・・・・・・
尽く、幽斎さんに関する期待を裏切られるぜ・・・・・ヽ(;▽;)ノ

さらに残念なことに、慶長十六年は九月〜十一月の途中までしかなく、慶長十七年はまるごとなく、慶長十八年は正月の途中まで。。。。

とはいえ、↓のような記事はある。

  • 「慶長十六年十月二十六日条」には「及晩幽斎後室之許へ見舞二行、鮭一尺進之」

ということで、ばっちり「幽斎」と出てきて、後室という記載からも既に麝香さんが未亡人になっていることはわかる。

ひとまずザッと眺めたところ、欠けまくりの十六年と十八年は「全斎」の名前も見えなかった。
同時期に「全斎」も亡くなっているのか、「幽斎」=「全斎」なので両方の名前が見えないのか・・・・
うーーーーん、悩ましいですな。。。
ここにきても結論は出ないっす・・・

その他

「慶長十二年三月」には忠興がわりと頻繁に出てくる。
豊前酒とかを送ってたりする。
ここだけじゃないけど、わりと秀賢に贈り物をしていますね忠興は。

あ、松井康之も出てくるんですよ!

  • 「慶長十二年閏四月十三日条」に「豊前松井佐渡方より書状到来、白砂糖壹壺給之」

忠利を通じて、忠興に援助を求めていたり(え?基本的に借金まみれの細川家に?)

  • 「慶長十二年十月二十九日条」には「受済に輿五郎(細川忠利)即指添、豊前に指下、拙者身上之儀二付、越中殿へ扶助之事申遣畢」

忠利くんの結婚の日取について問い合わせを受けたり

  • 「慶長十二年十一月二十二日条」には「豊前国主羽柴越中守より書状幷蜜柑千入桶壹到来、来節分方違幷子息内記嫁娶日取等書付遣之」

それから興元も出てきましたよ!数刻にわたってお話ししたんだってよ!

  • 「慶長十六年十月二十四日条」には「午刻、細川玄蕃頭許へ行、数刻令対談畢」


細川家関係者の動きを見るには大変楽しい資料であることは間違いないですが!
「全斎」「幽斎」問題に答えは出ないままです・・・・!笑
どうかどうか、有識者の皆様、お力添えを・・・・・!!

≪2023.7.4追記≫
全斎が誰なのかを教えていただきました!
気になる方は是非、パート④のコメントまでお読みください〜!!