細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

智光院はやっぱり宮川尼だったようだ!

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以前「宮川智光院」って誰だよ!?って記事を書きました。
こちら↓
細川家関係者であろう宮川智光院なる人物とは誰なのか? - 細き川に溺れたい


で、こないだ、いつも楽しませてもらっている津々堂様のブログで色々と検索していたら偶然に発見してしまった・・・!!
こちらの記事↓
■三淵藤英と一族 - 津々堂のたわごと日録


画像を貼り付けておられるので、文字検索では上がってこなかったため、以前の記事を書いているときにはスルーしていたみたいなんですけど、この系図!!
ここに、普通に、「智光院」って書いてあるやん!!!!!!!!!笑笑
うわあぁー!やっぱり「宮川尼=智光院」で合ってたんすね!!!!!!

この系図をどこから引かれているのか、この記事には載っていないので出典が不明なのは残念ですが、何はともあれ、スッキリ!!!!!笑

そうなると、やはりあの論文で「宮川女房衆=智光院=清原宣賢の娘」とされていたのは少し間違ってるってことですよね。「宮川女房衆=智光院」までは合ってるけど、「智光院≠清原宣賢の娘」ですもんね。
「慶長日件録」で清原宣賢の娘とされている「智孝院」と「宮川智光院(宮川尼)」は別人の可能性が高そう。もしくは日記の筆者の舟橋秀賢が娘と孫を間違えていたとか?
とはいえ、「慶長日件録」には「智廣院」も出てくるわけで、「智孝院」と「智廣院」が同一人物なのか別人なのかの謎も残るわけですが・・・

さらにいえば藤孝とそのきょうだいの生母については、正直明確な史実がないっちゃぁないみたいなので、この「智孝院」「智廣院」加えて「智慶院」については、まだまだ議論の余地がありそうですよねぇ。
今後も、なんか別のことを調べているときにふらっと新しい知見が得られることを願いましょう!笑

長岡京ガラシャ祭歴史講演会「戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~」:参加してきた

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11月14日(日)に長岡京ガラシャ祭歴史講演会「戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~」に参加してきました。
今月2度目の講演会!いやぁ、やっと色々な講演が無事に開催されるようになって、嬉しいかぎり!
講師は細川クラスタならご存知、熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽先生。
9月に歴彩館で予定されていた講演も延期になってしまったので、先生の講演をお聞きするのも久しぶりでした。

婚礼の儀

会場で説明されるまで知らなかったのですが(オイ)、講演会の前に別のイベントがありました。オープニングでは太鼓の演奏があり、ひっさしぶりに聴きましたが素敵でした。
それから今年も感染症対策のために、ガラシャ祭の一大イベントである行列巡行と楽市楽座は中止だったのですが、その代替として「婚礼の儀」がステージ上で再現されたのです。
玉と忠興を演じられたのは、長岡京市出身・在住のご夫妻。10組のご応募があった中、抽選で選ばれたのだそうな。
奥様は小柄で、旦那様は身長もあり体格もわりとよくて、身長差のある大変素敵なカップルでしたね~!
忠興と玉もこんな感じで婚儀を行ったのかなぁとなんだかしんみり。
当時の婚礼の儀では、両親は立ち会わなかったそうで、それぞれの侍女が横についてました。へぇ~!

講演会の休憩時間には、京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの皆さんによる演舞もありました。
婚礼の儀も含めて、こちらで一部写真が紹介されてますね↓




講演内容

で、講演会についての個人的メモかつ備忘録。
もちろん詳細な内容や資料のアップはできませんので、概要と気になったところをピックアップ。
講演のテーマとしては永青文庫や熊本に伝わっている史料を基に、西岡地域の国衆たちと細川家との関係を紐解いていくって感じでしょうか。
稲葉先生の講演では当たり前のように、参考資料として翻刻文を添付してくださっていてありがたいですね。(読めないけどね←)
今回初めて一般に紹介する史料もあり、たいへん貴重なお話が聞けて楽しかったです。

講演の流れとしては、藤孝が西岡に入る以前の時代(細川政元による支配)~藤孝時代~忠興・忠利時代の、西岡の国衆の動きをお話しいただきました。
特に、中世ではその「土地」に根差していた武士たちが、江戸時代には「兵農分離」の原則のもと土地とは切り離された存在であったというこれまでの日本史理解における大前提を、西岡出身の武士たちの動きを紐解くことで、より多面的に捉えなおす必要があるのでは?という稲葉先生らしい問いかけが含まれていました。

藤孝が西岡に入城してから物集女疎入を生害するまで”2年”かかったということの意味や、忠興・忠利時代における神足家と築山家の話など、とっても興味深かったですね。

(なんでも、稲葉先生は30年前の院生時代に西岡地域まで足を運んで調べたらしいが、あまりいい史料には巡り合わず、論文も満足いく出来ではなかったらしい。けれどその後に熊本大学に着任して、永青文庫の史料と出会ってあらビックリ、西岡地域に関するものもあるじゃない!ってことに。運命的ですねぇ)

伝わり残っている史料の価値

今回のご講演も、永青文庫や細川家に関係する旧家に確かに受け継がれ、残ってきた史料があるからこそお聞きできた内容でした。
特に築山家の古文書については、2016年熊本地震後の文化財レスキューにおいて稲葉先生自らが救い出したものですし、現在に至るまで様々な努力によって伝存してきたことがよくわかります。
細川家では主君側、家臣側の双方に、豊富に史料が伝わっていることで、400年近く前の彼らの姿が非常に立体的なリアルさをもって私たちの前に現れている感じがします。
ありがたや・・・・

思わず吹きだしたところ

ところで講演中、先生の言い回しや発言内容が面白くて、こらえきれずに吹きだしたところがいくつかありましたww
もちろん一言一句覚えているわけではなく、私の記憶に残っている発言の抜粋なので、イメージとしてお考えください~

  • 神足兄弟からの上申書の裏に書かれた主君の自筆決裁の文字をスライドに映しながら、「この汚い(←といっていたような気がするww)ばーーっと書かれた走り書きのようなところは・・・忠利の自筆です(笑)」「書道の専門家によると『走り書きのように見えて、実はしっかりした文字』とのことだが、私には走り書きにしか見えない(笑)」「忠利の字は慣れないと読めない(笑)」と笑いをまじえて解説wwww
  • わかります、ほんと、豪快な文字なんですよね忠利www
  • 三斎への奉公について「西岡にいる親類たちに協力してもらったから、参勤交代のときにお役に立てた」と神足八郎左衛門尉が書状で説明してるんですが、稲葉先生がすかさず「忠興は勝手気ままに江戸に行きますからね(笑)大変だったでしょうね(笑)」って言っててwwww
  • 勝手気ままに江戸に行く三斎おじいちゃんに振り回される家臣たちが目に浮かぶようですwww

研究者の方のこういうブラックジョークみたいなのいいですよねw
日々たくさんの史料・古文書をたくさん分析しておられる稲葉先生による細川家の面々の評はめちゃくちゃ面白いww

ぐっと来たところ

今回の講演で思わずぐっと来たのは、藤孝と光秀が信長政権下において凄惨な戦の最前線につねにたち「ともに戦場の地獄を経験し共有した」と解説されていたところ。

信長の命により、ある時は「降参してきた者も全員首を切れ」と言われたり、またある時は「避難しているだけの一般人は助けてもいいが、坊主どもは許すな」と言われたり。
敵方の「誰を救い」「誰を殺すのか」、究極の選択をともに経験した2人。地獄を共有する2人。

一方は近世的な統治の基盤を築く過程で主君を討つことになり儚く消え、一方は戦と戦の間を縫って「古今伝授」の講釈を受けて自らを文化的権威にまで押し上げその後も移り変わる時代を渡り切った。
経験や思いは共有しつつ、行動では袂を分かつことになった盟友。

(※古今伝授関係については、従弟である吉田兼見とともに神道の流れの中に組み込み、統一国家の成立に奉仕していくことにもなったとの説明あり。稲葉先生はさすがに、きちんと藤孝と兼見が従兄弟だと説明してくれました)

そもそもの出自の違いや周辺の人間関係の違いもあっただろうけど、やはり藤孝さんはあまりにも冷徹で客観的な視点を持っていたんだろうなぁと思わざるを得ない。あるいは自分の能力や手の届く範囲を熟知していたともいえるか。
人との縁や、それに付随する感情を決して軽視するわけではないけれど、流されることも絶対にないのが細川藤孝・幽斎らしいなと改めて。そんなあなたが好き。

細川藤孝・幽斎の存在を知り、好きになり、細川家にハマって約3年半。
その間に稲葉先生の講演にはたぶん5回以上参加させていただいてますが、いつも楽しませていただいています。
今後とも、先生や永青文庫研究センターの皆様からの貴重な研究成果を世界の片隅でお待ちしております!

大阪歴史博物館「細川ガラシャと大坂」:講演会参加記録

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2021年11月3日、大阪歴史博物館の開館20周年記念 館長講演会「細川ガラシャと大坂」に参加してきました。
大河ドラマ麒麟がくる」の放映に合わせて、前年度に開催が予定されていたけれど、コロナ禍で中止になってしまったんですよ(その時も申し込んではいた)
延期して開催していただいてありがたい限り。
対面での講演会の参加自体、1年以上ぶりだろうか・・・

感想

講演内容や資料等については無断転載禁止、ということだったので、メモ程度に留めます。
細川クラスタからすれば、ものすごく目新しい情報は特にはなかったかなと思います。
ガラシャの生涯をざっくりまとめつつ、意外と大阪はキリスト教の布教には重要なところだったよということをからめて、お話ししてくださった感じ。
キリスト教会の場所や、大坂にあった細川家屋敷の場所についても、史料から読み解いて推論してくださいました。
あと、館長先生としては細川興秋の生年は「天生13年説」を推したいとのことでした。宣教師側の史料に残されたガラシャからの証言をもとに、大阪屋敷が出来上がってすぐに忠興と玉が復縁した後に、興秋が生まれたのだろうと。

最後にちらっとスライド資料でのみ提示してくださった明治末と昭和初期の「越中井」の新聞記事や写真はなかなか興味深かったです。
あと、ガラシャ自刃後に焼けてしまった屋敷について、再建されたかどうかは不明なんだそうですが、十年以上後も「玉造の焼屋敷」「越中殿焼屋敷」という呼び名が残っていたというのも面白いですよね。記憶に残る焼失だったのだろうなぁ。

講演中、ちょこっと気になったところもあった。
史料として「兼見卿記」もいっぱい出てくるんですが、親戚だからこそ、細川家のいろんな情報が残っているよってのは触れてほしかったなと。聴きに来られてた方は、細川家に詳しかったり興味ある人ばかりではなかったと思うので。
あとは、興秋のこと。
時間がなくて十分に説明できなかったのだと思いますが、興秋が細川家から出奔したことと、関ヶ原で西軍についたことの、前後関係というか文脈がぐちゃっとなってしまっていて・・・
なんだか西軍についたことが要因で本家から離反したと捉えられかねない感じの説明になってしまっていて、細川家好きとしてはヒヤッとしました(汗)


そして今回のBest of ニヤニヤは、大阪屋敷のときも、伏見城下の屋敷のときも、正式な秀吉からの命を待たずに、城普請とほぼ同時に屋敷を建設し始めている忠興ですww
先を読んでうまく立ち回り、時の権力者に嫌われない策を自発的にとれるところ、とっても忠興らしくてニヤニヤしましたww

講演会の後に

で、いつか行こう、いつか行こうと思って行くことができていなかったので、講演会終了後に「越中公園」と「越中井」を訪ねました。
大阪城下にあった細川家屋敷跡の周辺には、現在は公園と教会が建っているんですね。細川屋敷は二ノ丸から目と鼻の先って感じだったそうな。
で、屋敷にあった井戸の跡も残っていると。

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NHKホールにコンサート聴き行くたびに、ちょっと足を延ばそうと思いながらずっと(めんどくさくて)行っていなかった場所です。
今回はせっかくガラシャと大坂に関わる話を聞きに行くということで重い腰をあげました。

私以外にも、おそらく講演会に参加されたのであろう方が数名、見学に来られてましたね(笑)
当初は講演会の前に訪問しようと計画していたのに、朝寝坊したので講演会後に訪れることになりましたw

越中公園は、親御さんに見守られつつ近所のお子さまがたくさん遊んでおられて、なんだかほっこりしました。
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越中井の横の道路挟んだ歩道には、「細川越中守忠興屋敷跡」という石柱が!
まだ新しそうな感じだっただので、わりかし最近設置されたのかも?なんだか嬉しいですね~
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ガラシャについて

前にも書いているかもしれませんが、私は「細川ガラシャ」「明智玉」という人物に、単体としてはほぼ興味がない。
例えば「明智玉」が嫁いだ先が、池田家であるとか柴田家であるとかだった場合、同じような歴史の悲劇が起こったとしても、彼女へ興味を持つことはなかったと思う。
つまり、私にとって彼女は「細川家の嫁」「細川忠興正室」「細川忠隆・興秋・忠利・於長の母」でしかなく、それ以上でも以下でもない感じ。
好き嫌いではなく、細川家の文脈の中でしか見られない人物なんですよね。

なので、「細川ガラシャ」って銘打たれたものを見ても、それだけで飛びつこうとは思えない。
と言いつつ、ガラシャ関係の話題で細川家が関係しないわけはないので、結局確認はすることになるww

今回も「ガラシャの話」が聞きたかったというよりも、「その周辺の細川家の話」を聞きに行ったというのが正しいところ。
京都・東京・熊本で細川家の話を聞く機会はありますが、大阪で聞く機会もそうないので、貴重な経験でした。

いろんな土地やアプローチで細川家周辺のことが掘り起こされるのは私の幸せにつながるので、皆様どんどんやってくれていいんですよ!笑

永青文庫美術館「柿衞文庫名品にみる芭蕉―不易と流行と―」に行ってきた

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永青文庫美術館の2021年秋季展「柿衞文庫名品にみる芭蕉―不易と流行と―」に行ってきました。
特に松尾芭蕉が好きってわけではないが(エ)実は兵庫県伊丹市の柿衛文庫にも訪れたことがあるので、主目的のついでに覗いてみました。

気になったこと

閲覧中に気になってメモしたことを書き出しておく。後で気づいたけど、ほぼ芭蕉のことではなかったww

  • 伊丹を代表する俳諧師の上島鬼貫の代表的な俳句がとても良かった!
  • 『おもしろさ 急にハ見えぬ すすき哉』
  • 芭蕉でいうところの『古池や~』の句と同じように、鬼貫の俳句を決定づけるようなものらしい。確かに素敵。
  • 与謝蕪村筆の『俳仙群会図』には「長頭丸」くんもいたぞ!
  • 幽斎様大好き松永貞徳くんのことです!!
  • 談林俳壇が流行る前は、貞徳を祖とする貞門が大流行していたんですよね。近世俳句の先駆けでもあった貞徳くん。
  • 柿衛文庫のHPで紹介されているコレです!
  • 芭蕉が弟子のひとりに送った書状に書かれてた弘法大師の書道の教えがけっこう心に響いた。
  • 「古人の跡をもとめず、古人の求たる所をもとめよ」
  • 温故知新、伝統を守ること受け継ぐってことに、大事なのはこういう考えなのだろうと思わされましたわぁ。物理的な跡を追うのではなく、志向する精神を追えって感じでしょうか。
  • 今回の展示は、伊丹で何百年と続き酒造業の当主であった岡田利兵衛=柿衛翁のコレクションなのだが、柿衛翁は熱心な鳥好き・鳥研究者でもあったらしい。おうちでたくさん珍しい鳥を飼ってもいた。
  • 風琴鳥のはく製の写真があったのだが、めっちゃきれい!
  • ちなみに俳句については、同郷の鬼貫から始まって芭蕉にも手を出し、いつしか論文とかを発表するまでになる。
  • 伊丹市長なども歴任され、関西圏の女子大の教授とかもしていたらしく、とんでもなくマルチな方だったんだなぁ。

主目的:永青文庫美術館で絶対手に入れたかったもの

コロナ禍で、なっっかなか訪れることができていなかった永青文庫美術館。たぶん1年以上ぶり?
実は2021年1月に永青文庫さんのTwitterで↓が紹介されていて・・・・



「ほっすいぃぃぃ!!!!」

ってなったものの、今年はほぼずっと緊急事態宣言が発令されていたし全然訪れることができず。。。
次、永青文庫美術館を訪れるときには絶対に買う!と心に決めていました。

で、今回、入場時に受付をキョロキョロしたものの、マスキングテープ見当たらない・・・・・
え・・・?販売してないのもしかして・・・・?????

って不安な気持ちになりつつ、先に展覧会を観る。
観てる間も「え?売り切れたりしてるのか????マジで???」って頭の中をぐるぐるさせつつ、回覧する(展示に集中しなさいよw)

1時間ちょっとかけて展示を観た後、おそるおそる受付に向かう私。
基本的に人見知りなので、お店とかでもスタッフに声かけるのも苦手なんだが、マステ欲しさに勇気を出した・・・
目を泳がせつつ、受付の若い娘さんに「あの、以前、永青文庫さんのTwitterで紹介されていたマスキングテープって、売ってないのでしょうか・・・???」と聞いてみたところ
娘さんは「え?あるには、あるんですけど・・・」と戸惑いつつ、「ちょっとお待ちください」って一度奥に引っ込んだ。
上司にお伺いしているのか!?
お伺いを立てねば売ってもらえぬものなのか!?!?
おめぇに売るマスキングテープなんかねぇよとか断れたりするのか!?!?

ってドギマギしたけど、普通に売ってもらえた!!笑
よかったぁぁ!!!今回ここにきた一番の目的だったんで!!!

この秋季展は永青文庫の所蔵品展ではないし、オリジナルグッズは並べられなかったとかそういう事情があったのかしら?(受付横には松尾芭蕉や柿衛文庫関係の品が置いてあったっぽい)
いずれにせよ、頑張って聞いてみてよかったわ・・・

全3種類、かつ、九曜紋のは2つ、計4つお買い上げ!1個300円!お安い!!笑
もっとこういう公式オリジナルグッズつくっていただきたいわぁ。
幽斎さんや忠興、忠利とかの自筆書状のクリアファイルとかよさそうじゃないですか?彼らの文字の違いを手元で楽しみたひ。
永青文庫さんは作品修復のためのクラウドファンディングもされていたりするので、是非グッズでも資金回収してほしいなぁ(言い方)

訪問の度に九曜紋のマステは買い足したい(日常でマステを使う女子力はないけどw)
2022年も行きたい展覧会が目白押しですしね!!
春季展「戦国最強の家老 ―細川家を支えた重臣松井家とその至宝―」とかもう、これはもう、細川家で松井家の展示とかもう、これは行かねばっっっ(義務)
冬季展「揃い踏み 細川の名刀たち ―永青文庫の国宝登場―」は、とうらぶファンの方たちが押し寄せるでしょうし、なんとか平日に休みとって行きたいなぁ。
あぁ、来年はもうちょい頻繁に訪れることができますように・・・・

『慶長日件録』に出てくる細川家関係者④ ー全斎・幽斎問題ー

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まだ続くのかよ(笑)
過去の記事はこちら↓
パート①→『慶長日件録』に出てくる細川関係者について調べてみた - 細き川に溺れたい
パート②→『慶長日件録』に出てくる細川家関係者について調べてみたパート② - 細き川に溺れたい
パート③→『慶長日件録』に出てくる細川家関係者について調べてみたパート③ - 細き川に溺れたい


「全斎」「幽斎」問題がいまだ片付かないので仕方ない・・・ww
デタラメながら色々な検索の仕方で「全斎」を調べていたところ、『言継卿記』に以下のような記事があることを知りました!

  • 「天文十四年(1545年)十月十五日条」に「祖母忌日之間、本誓寺僧統全斎に来、相伴候了」

おお!?浄土宗西山義の本誓寺というお寺に「全斎」なる僧侶がいたっぽい!?
これが『慶長日件録』に出てくる「全斎」と同一人物だとすると、60年以上後の慶長十二年頃まで生きていたことになる。
天文十四年に20歳くらいとした場合、80歳くらいまで生きていればあり得る?
いやでも「僧統」ということはそこそこお偉いさんだろうし、そんな若いことはないのか・・・?
うーーーーん、わからん(笑)

豊前下向のことを照らし合わせてみる

手元にある資料・書籍の中で、とりあえず動向がある程度詳しく載っている新人物往来社の「細川幽斎・忠興のすべて」の年表をもとに、幽斎さんが豊前に下向している時期をあげみてる。

  • 「慶長六年閏十一月二十六日」に豊前下向
  • 「慶長七年三月二十一日」に豊前から帰宅
  • 「慶長十年三月三日」に豊前上野村興国寺で墨染めの桜をみて、歌を詠む(with 細川孝之)
  • 「慶長十二年七月七日」に豊前にて飛鳥井雅庸を招いて、蹴鞠・歌会を開催
  • 「慶長十四年六月」に豊前にて飛鳥井雅庸を招いて、歌会を開催

で、前回とりあげた「全斎」に豊前下向関連の記事を再度提示してみる。

  • 「慶長十一年七月九日条」には「全斎豊前下国筮勘之」
  • 「慶長十二年正月八日条」には「全斎豊前へ下向」
  • 「慶長十二年四月十四日条」には「全斎豊前より帰宅」
  • 「慶長十二年五月十四日条」には「巳刻、全斎、豊前へ下国」
  • 「慶長十二年十一月十六日条」には「全斎従豊前帰宅」

とりあえず上記からわかるのは、「慶長十二年七月」には「幽斎」も「全斎」も豊前にいたってことですね。
残念ながら慶長六〜七年の記事はほとんど『慶長日件録』にはないので、幽斎の動きも全斎の動きもわからず・・・
うーーーん、かぶっているのは一つだけかぁ・・・思ったより少ないな・・・

仕方がないので、わりと有名(?)な「慶長十年三月三日」の墨染めの桜を見に行ったときのことをちょっと掘り下げてみる。
『慶長日件録』で「慶長十年三月」に記事を眺めてみると、上旬には「全斎」も「幽斎」も出てこない。
「三月九日条」には「2〜3日前に上洛した忠興が、病気なので見舞いに行った」みたいな記事がある。
その後、「三月十三日条」に「及晩家君・全斎等御出」とある。

お?どうかな、コレ?さすがにこの時代に豊前↔︎京都を十日以内で移動するのは難しいか???
ということはやはり、「全斎」「幽斎」は別人と結論づけていい!?!?!?

と思ったが、「細川幽斎・忠興のすべて」の年表より、忠興は小倉↔︎京都を6日で移動していることがわかる。。。
うーーーーん、結論がでねぇぇぇぇwwwww

「全斎」「幽斎」問題の決着はつかず!

残念!!!!!笑

なんでド素人が、こんなこまけーーことをこんな真剣に調べているのか、自分でもよくわからなくなってきた(苦笑)
そもそもちょこちょこ翻刻の違いがある中(妙庵↔︎好庵など)、国会図書館のデジタルライブラリー本でも、史料纂集本でも、「全斎」は「全斎」で変わらないわけで、なんでこの人を「幽斎」にしようとしてしまったのか。。。
そろそろ黙りましょうwww

『慶長日件録』に出てくる細川家関係者③

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なぜかシリーズ化してきた(笑)
パート①→『慶長日件録』に出てくる細川関係者について調べてみた - 細き川に溺れたい
パート②→『慶長日件録』に出てくる細川家関係者について調べてみたパート② - 細き川に溺れたい


これまでの記事では、国会図書館のデジタルコレクションの『慶長日件録』のおおよそ前半部を眺めてきました。
でもけっこう古いし、ところどころ翻刻間違っているのでは?と感じていたりした(古文書読めんオマエが言うな)
そんな折、『史料纂集』というシリーズの中に「慶長日件録」もあることを知りました!
早速図書館で借りてみた。

ちょっとした違い

まずは、人物を指すところにわかる範囲でルビで人物名称が書かれている。
さらに、上欄には日記の内容の一部の概略が掲載されている。
これ、日本史とか戦国時代のことに詳しくない私みたいな素人にはありがたい仕様ですわ〜

だが、しかし・・・

私が知りたい「全斎」が誰なのかは書かれてなかったぁぁヽ(;▽;)ノ
さらに言えば、デジタルコレクションの方では「妙庵」ってなっていたところが、「好庵」ってなってたぁぁぁヽ(;▽;)ノ

うわぁぁぁん裏切られた気分wwwwwwwww

えーーー?妙庵じゃないのぉぉ??
ネットで検索しても、この時代に該当しそうな「好庵」なんてヒットしないんですけど!?

あ、しかし「妙庵」が出てこないわけではない・・・

  • 「慶長十一年正月十九日条」には「三男千代丸依發熱妙庵召遣、則来入、次全斎来入」

との文があり、「妙庵」って出てくるやん!?しかもまた全斎と近いやん!?
他にも「慶長十一年八月四日条」等、数カ所に「妙庵」が出てくる。
もぉぉ、わけわからんwwww

全斎で気になるところ

『慶長日件録』を眺め始めた当初は、幽斎は出てこないわりに全斎はよく出てくるので、もしかして誤字かなんかで全斎=幽斎では!?みたいに思ってましたが。
結局「幽斎」は「幽斎」で少ないながらきちんと記事に出てきたことで、書き分けてるし違う人物なのか・・・となり。
前の記事でも書きましたが、もしかしたら全斎は医療関係者かもなと思わせる記録もあるので「幽斎さんとは違うのかしら・・・」とも思うところはある。
でも、逆に「幽斎さんだったらしっくりくるな」みたいなところもあるのよ・・・?

  • 「慶長十年十月二十一日条」には「暮天家君へ参、次全斎へ行、於 禁中百首御當座有之云々、十人各十首充云々」
  • 「慶長十一年七月九日条」には「全斎豊前下国筮勘之」
  • 「慶長十二年正月八日条」には「全斎豊前へ下向」
  • 「慶長十二年四月十四日条」には「全斎豊前より帰宅」
  • 「慶長十二年五月十四日条」には「巳刻、全斎、豊前へ下国」
  • 「慶長十二年十一月十六日条」には「全斎従豊前帰宅」

一つ目の記事は、禁中での歌会のことを「家君=清原国賢」もしくは「全斎」から聞いたっぽい感じだし。
二つ目〜六つ目からは「全斎」が何度も「豊前」に下向していることがわかる。
この時代の和歌関係の権威といえば言うまでもなく幽斎さんですし、この時代の豊前は忠興が入国し治めているわけで、幽斎さんも何度か豊前を訪れてはいるのです。
・・・・・・ね?(ね?じゃない)

『慶長日件録』には、梅印元冲が亡くなったこと、秀賢の息子たちや妹が亡くなったこと、中院通勝が亡くなったことなど、身近な人の死が書き留めてられている。
なので、もしかして「幽斎」もしくは「全斎」の死も記録されているのでは!?
と期待したのですが・・・・
残念ながら慶長十五年は「八月十三日条」までしかないらしく、幽斎さんが亡くなった”八月二十日”の記事は存在していなかった・・・・・・・・
尽く、幽斎さんに関する期待を裏切られるぜ・・・・・ヽ(;▽;)ノ

さらに残念なことに、慶長十六年は九月〜十一月の途中までしかなく、慶長十七年はまるごとなく、慶長十八年は正月の途中まで。。。。

とはいえ、↓のような記事はある。

  • 「慶長十六年十月二十六日条」には「及晩幽斎後室之許へ見舞二行、鮭一尺進之」

ということで、ばっちり「幽斎」と出てきて、後室という記載からも既に麝香さんが未亡人になっていることはわかる。

ひとまずザッと眺めたところ、欠けまくりの十六年と十八年は「全斎」の名前も見えなかった。
同時期に「全斎」も亡くなっているのか、「幽斎」=「全斎」なので両方の名前が見えないのか・・・・
うーーーーん、悩ましいですな。。。
ここにきても結論は出ないっす・・・

その他

「慶長十二年三月」には忠興がわりと頻繁に出てくる。
豊前酒とかを送ってたりする。
ここだけじゃないけど、わりと秀賢に贈り物をしていますね忠興は。

あ、松井康之も出てくるんですよ!

  • 「慶長十二年閏四月十三日条」に「豊前松井佐渡方より書状到来、白砂糖壹壺給之」

忠利を通じて、忠興に援助を求めていたり(え?基本的に借金まみれの細川家に?)

  • 「慶長十二年十月二十九日条」には「受済に輿五郎(細川忠利)即指添、豊前に指下、拙者身上之儀二付、越中殿へ扶助之事申遣畢」

忠利くんの結婚の日取について問い合わせを受けたり

  • 「慶長十二年十一月二十二日条」には「豊前国主羽柴越中守より書状幷蜜柑千入桶壹到来、来節分方違幷子息内記嫁娶日取等書付遣之」

それから興元も出てきましたよ!数刻にわたってお話ししたんだってよ!

  • 「慶長十六年十月二十四日条」には「午刻、細川玄蕃頭許へ行、数刻令対談畢」


細川家関係者の動きを見るには大変楽しい資料であることは間違いないですが!
「全斎」「幽斎」問題に答えは出ないままです・・・・!笑
どうかどうか、有識者の皆様、お力添えを・・・・・!!

『慶長日件録』に出てくる細川家関係者②

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順番を完全に間違えていますが(苦笑)
この記事↓は舟橋秀賢の『慶長日件録』の慶長九年~十年あたりのことを書いていました。
hohshoy.hatenablog.com


で、その後ちょっと気になって前半部に出てくる細川家関係者も調べてみた!
日記は慶長五年から始まっています。とはいえ、慶長五年は正月と二月、慶長六年は九月と十二月、慶長七年は二月と三月と十二月しかないのだが。

  • 「慶長五年正月」下旬には、「羽與一」という名前が数日に渡ってちらちら。羽柴与一郎=忠興、ですね!あと南禅寺語心院に行ったけど「冲長老」は具合が悪くて対談できなかったらしい。
  • 「慶長六年九月十三日条」には「従羽柴越中守有使之、嫁娶日取、所望之由也、使、松田七左衛門也、蔭凉軒同途也、則撰吉日、遣之」という記事が。うーん、誰の結婚の話なのかしら?忠興の息子の誰か?
  • 「慶長七年十二月十二日条」には、禁中での和漢の句会に「梅印」が参加しています。西笑や崇伝も一緒に参加してますな。
  • 「慶長八年正月二十三日条」には、「長岡越中守忠興」のところへ行って菓子折りを進呈している。
  • 「慶長八年二月五日条」には「豊前長岡越中、息女、年筮認、遣之」とあり、忠興の娘の誰かの年間占いをしたためて、おくった感じ?ナニソレ可愛い!忠興の娘の誰ちゃんなのかな?長は慶長八年に亡くなっているっぽいし、古保・多羅・万のうちの誰かかなぁ?
  • 「慶長八年三月十五日条」には、「也足軒」が来た後、「宮川殿」という人物も秀賢宅を訪れている。

・・・・・この「宮川殿」って「武田信高」じゃね・・・・!?!?!?
先日「宮川智光院」なる人物って誰よ?という記事で、触れていた宮川尼の夫。
うーーーん、コレだけじゃもちろん断定はできないけど、でも、ありそうじゃね!?

  • 「慶長八年八月二十三日条」には、揚明という場所において和漢聯句の会があったようで、「南禅寺三長老、冲長老」が参加している。

やはり気になる全斎

それから、前半部にも「全斎」なる人物は散見されます。
これはやっぱり「幽斎」なのかなぁ・・・?

  • 「慶長八年五月十七日条」には、「全斎」がやってきて、一緒に晩御飯を食べて、その晩に「三條西殿」へ行って色んな名筆を見せてもらって驚愕!みたいな記事もある。

コレ、秀賢と一緒に「全斎」も三条西家に行ってるのかしら?もし全斎⇔幽斎ならば、幽斎さんと三条西家の関係性を考えると、スッと入ってくる行動だなぁと思うわけですが。
それから慶長八年を見てると、「全斎」は「家君=著者の父親、清原国賢」ともちらちら行動一緒にしてる感じかな。国賢は幽斎さんより10歳下。細川家界隈では「清原マリア」の兄として有名でしょうか?

ところが・・・!?

とかメモりながら日を進めていたらば!?!?!?!?
「慶長八年十二月三日条」に突然「幽斎来談」と出てきましたけど!?!?!?!?
いやいや突然すぎるってwwwww

ええーーーーー??私が見落としてるだけで、普通に「幽斎」って出て来てたのかなぁ!?!?!?
その他にも

  • 「慶長八年十二月二十日条」に「幽斎近所之間、則立寄」とか
  • 「慶長八年十二月二十七日条」には「幽斎簾中より白綿貮把、被恵之」とか
  • 「慶長九年閏八月九日」には「幽斎見舞二行、今朝、豊前ヘ下向云々」とか

ちょっと間があいて

  • 「慶長十年九月八日条」には「幽斎ヘ行」とか

忠興よりは出現回数は低いですけど、出て来てるぅぅ(笑)
やっぱり「全斎」とは別人なんですかね・・・???

別人だとすると「全斎」は医者的な感じの人かなぁ?
この人が出てくる記事の中で、「薬」という字が出来たり秀賢が「腹中氣也」になっている日に訪ねてきたりしていることがある。
たまに「竹田梅龍(軒)」という人物と一緒に行動しているっぽいのですが、戦国時代の医者である「竹田定加」とか「竹田秀慶」とかの関係者と考えると、医療関係者同士だったりとか?

あと「意斎」という人物も出てくるのですが、これは「御薗意斎」という人かも?
正親町天皇後陽成天皇にも処置を施した鍼医らしく、どうも忠興とも親しかったらしい。へぇ。

うーーーん、幽斎・全斎問題の謎は深まるばかりwwww