細き川に溺れたい

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梅印元冲について調べてみた / 論文紹介

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以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。


「梅印元冲」とは、細川藤孝/幽斎の実弟
三淵晴員の息子の一人で、おそらく幽斎さんと同母で、清原宣賢の娘である智慶院が生んだらしい?
永禄二年(1559年)生まれで、慶長十年(1605年)に没。幽斎さんとはなんと25歳差!ほぼ親子っすねぇ。
(父である三淵晴員は1500年生まれ1570年没なので、彼が還暦の頃に梅印は生まれて、10歳過ぎには亡くなっている)
南禅寺の268世住持も務めていて、禅僧としてはエリートと言えるでしょう。
当時の公家の日記などには南禅寺の「冲長老」として書かれていることが多い。

以前話題にした(コレとかコレとかコレとかコレとか)『慶長日件録』にもけっこう出てくる。
禁中の和漢聯句や漢和聯句に参加している記録はもちろん、著者である舟橋秀賢(母とされる智慶院の出身である清原家筋の人物)ともちょこちょこやりとりがあったようです。
梅印は南禅寺の中でも「語心院」にいたようなのですが、日記の中でも頻繁に「語心院」が出てくるんですよね。(悟心院という表記もあり)
秀賢と梅印元冲はけっこう親しかったということでしょう。
ちなみに秀賢は彼の危篤の際にもお見舞いに行ってるんですよ・・・・
「慶長十年七月二十四日条」では、

早朝、南禅寺語心院冲長老、煩見舞二行、十死一生之躰也

翌日の「慶長十年七月二十五日条」では

南禅寺ヘ行、夜前、冲長老寂滅云々、仍爲吊企恨歌畢

梅印元冲の死を悼んで、恨歌を捧げてくれたのかと思うと、なんか泣けますね。。。
それから「慶長十年十月五日条」では

勾當御局へ参、南禅寺語心院冲長老、去七月入滅之刻、遺言、梅谷筆跡東坡可備叡覧云々、仍件本幷大蔵一覧(此本去六月二冲長老被申請)勾當御局ヘ令持参、令進上畢

という記事が。
なんかこう、悲しくなっちゃうねぇ・・・

で、そんな梅印に焦点をあてた論文を発見したので、図書館で借りて複写。気になる方は是非↓の本を借りてみてください~

柳田征司, 梅印元冲講智仁親王聞書『蒙求聞書』, 汲古書院, 国語学論集 : 築島裕博士傘寿記念, 575-595, 2005

梅印元冲について

ずっと梅印の生年がよくわからなかったんですけど、この論文によると、『鹿苑日録』慶長二年十一月八日の条に以下のように記録されているらしい。

新命卅九歳而住南禅。其字梅印也。早梅著花者。時節云字云書之。脩竹之句者。歳寒時節也。故書之。其上梅印者於予者後輩也。新命可依其人。書疏者亦可依其人。月渓見前不見後。担板漢也。故不改之。

で、慶長二年(1597年)に三十九歳ですから、永禄二年(1559年)生まれと推定できる、とのこと。


ふむふむ、もともとは1552年くらいの生まれのなのかなって想像していたのですが(なんでそう思ったのかの根拠は忘れた←)、もうちょい遅い生まれだったんですね。
『鹿苑日録』の天正十九年六月のいくつかの条には、梅印と思われる人物が「海印」という名で見られ、この時は「海印」と言っていたらしい。へぇ!
師である「梅谷元保(1516~1593、南禅寺第264世住持)」も南禅寺語心院にいたそうで、いつの頃からか梅印もここにいたのだろうとのこと。
ちなみに、慶長二年八月十五日に秀吉から建長寺住持の公帖を受け、さらに同じ年の九月二十八日に南禅寺住持の公帖も受けているのだそうな。
慶長年間には徳川家康との交流も伺えて、やはり幽斎さんの血縁ということもあるのでしょうが、時の天下人とも親しかったように見えますねぇ。

禁中での漢和聯句や講義

で、まぁやはり幽斎さんとの関係からつながったのだと思いますが、禁中での漢和聯句にわりと参加している。
後陽成天皇漢詩にハマっていた時期があるようですから、五山禅僧が禁中に招かれることも多かったのかな。
その際には、幽斎さんや玄圃霊三、英甫永雄といった近親者とともに参加していることも多く、細川家のネットワークを感じさせますねぇ。

聯句だけでなく、禁中で「錦繍段」や「蒙求」の講義をしていて、そこに智仁親王も参加していた。
智仁親王に対する色々な人からの様々な講義については、もちろん我らが幽斎さんによるものもあったり、英甫が行っているものもあったり、さらにいえば梅印と仲良しであっただろう舟橋(清原)秀賢など母方の親戚が行っていることもある。

つまり、五山のエリート禅僧であり、かつ京でもトップクラスの文系家系(どんな説明)である清原家と、智仁親王と個人的にもとても親しい幽斎(細川家)に連なる者であることなど、梅印の活動にとってはこういった要素が大きく影響していたんでしょうねぇ!

ちなみに幽斎オタクの私が盛り上がった文章を引用しておきます(個人的な趣味)

梅印の『蒙求』の講義も幽斎の紹介によって智仁親王により開かれたことも考えられる。三つ目に注目されるのは幽斎が弟梅印と行動をともにすることが少なくなかったらしいことである。

最初に書いたとおり、幽斎さんと梅印は25歳も年が離れていたわけで、一般的な兄弟関係ではなく、もはや親子や師弟関係っぽくなっていてもおかしくない気はする。
自分と同じく、母方の血筋が色濃く出て文芸に秀でた年の離れた弟を、なにくれとなく面倒見てあげていたとしても不思議ではないなぁと、オタクは妄想しています。


自分で言うのもなんやけど、こんなに梅印元冲について書いたブログは他にないだろうなwww
むしろ梅印について詳しく記載があるブログやネット記事があれば、教えてください!!笑

※画像はこちらからお借りしました→ 京都フリー写真素材