細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

英甫永雄について調べてみた / 論文紹介3本


以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。

幽斎さんの甥に、英甫永雄という禅僧がいます。


この方について調べてみてわかったことと、ちょっとした雑談。
「雄長老集」という書籍の中の、以下の3本の論考を参考にしています。

永江秀雄, 雄長老の出自について・補注, 雄長老集 上巻, 463-481, 1997

蔭木英雄, 「倒痾集」の世界 ―織豊時代の五山文学管見―, 雄長老集 上巻, 483-539, 1997

伊藤東慎, 狂歌師雄長老と若狭の五山禅僧, 雄長老集 上巻, 539-598, 1997

宮川尼

幽斎さんの異母姉である(とされる)宮川尼は、若狭国人の武田信高(信重とも?)に嫁いだ。
夫はこの人↓です。
龍泉寺:絹本著色武田信高画像
当時の狂歌咄にもちょいちょい出てくる宮川尼ですが、それらのエピソードを見る限り、けっこう愉快な女性だったんじゃないかなって思う(笑)

幽斎の甥・英甫永雄

で、この宮川尼と武田信高の間に天文16年に生まれたのが、英甫永雄。
読みは「えいほ ようゆう」でいいと思います。
「えいほ えいゆう」というフリガナもよく見られますが、口に出して読むなら「えいほ ようゆう」の方がしっくりくるもんな(独断と偏見)

そう、幽斎さんの甥ですね。英甫から見ると、幽斎さんは母方の叔父。

この英甫永雄さん、僧侶になるんですけど、けっこうなやり手。
当時有名だった禅寺五山の一角、建仁寺で学び292世住持となり、南禅寺でも入寺はしていませんが住持になった人物なのです。
同時代の人の日記なんかにも出てくるんですけど、「雄長老」っていうのがこの方のこと。


五山学僧は、当時の上皇天皇親王や公家の人たちと、和漢聯句や和漢千句などを興行しています。
英甫も、そういった会に参加して漢句を詠んでいますね。

さらに彼は「狂歌」でめちゃくちゃ有名なんですよね。「近世狂歌の祖」とか言われることも。

かの有名な(って私はよく知りませんが←)、林羅山が師事していたのもこの方だったりする。

あとは、海北友松を好きな方ならその方面から名前を聞いたことがあるかもですね。
おそらく幽斎さんからの紹介で、友松と英甫永雄がつながって、その後建仁寺に出入りできるようになって傑作が残されたってところでしょうか。

艶歌

そんな英甫ですが、変わった話題としては、とある少年僧(梅岳元真というらしい)への想いを艶歌に残していることでしょう。
当時の五山では、けっこうこういう若衆文化とかで退廃が進んでいたりもしたらしく、英甫のこういう歌もその例として批判的に捉えられていたりするみたい(汗)

英甫の詩文集「倒痾集」にはこの梅岳に呈する作品が三十二首もある(!)

(ところで、”梅岳元真”って絶対に”梅印元冲=幽斎弟”となんかつながりありますよね・・・どっかで法嗣関係か師弟関係でつながっていますよね・・・・????)

細川界隈のネットワーク

なんかね、やっぱり細川界隈のネットワークってすごいもんだよなと思うのですよ。
この英甫はもちろんですけど、幽斎さんの弟の玉甫や梅印もそこそこな僧侶ですし、松井康之の叔父である玄圃霊三ってのも有名な僧侶なんですよね。(別記事参照
こういう人たちが持っていたいろんなつながりを、もちろん細川界隈の人たちも存分に使っていたでしょうし、活かしていたでしょう。

細川家が、様々な状況下で、様々な天下人のもとで、生き延びてこられたのは、こういう広がりのある人的ネットワークが確かに存在していたからこそだよなって感じています。

幽斎と英甫

上述の蔭木氏の論文では、幽斎さんと英甫が、血縁的な繋がり以上に文学的な繋がりが強かったと触れられています。
また、英甫が亡くなった後、その死を悼んで幽斎さんが詠んだ歌が残っています。

長月のいざよひの月の影さへてむなしき空やかたみなるらむ

「空の教えが英甫の形見」であるという歌。
文学や仏教の話を二人でいっぱいしたんだろうなぁ・・・
息子の忠興ほどではないですけど、当時の平均を考えれば幽斎さんもわりと長生きな方。
才能溢れる年下の身内が先に逝ってしまうのはどれほど哀しく寂しいものだっただろうかと、この歌を眺めてると切なくなってしまうオタクです。。。(最終幽斎に持っていくいつもの手法)

※画像はこちらからお借りしました→ 京都フリー写真素材