細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

英甫永雄の文芸 / 論文紹介2本


以前も少し記事にした幽斎さんの甥・英甫永雄に関して、その文芸活動に関わる論文を2本ご紹介。

深沢真二, 雄長老と和漢聯句, 国語と国文学, 71(5), 44-56, 1994

花田富二夫, 狂歌咄の人物―雄長老雑記―, 雅俗, 創刊号, 59-84, 1994

1本目:英甫永雄と和漢聯句

この論文では、英甫が参加していた和漢聯句についてざっくりとまとめられています。
主には以下の3種に分けられる。

  • ①幽斎さんを中心とした文芸ネットワークの面々と行っている私的な会
  • 後陽成天皇が開いた禁中での公的な会
  • ③和漢聯句における漢方の稽古の場だったとされる会

まず①について。
どうやったって、この時代に、細川幽斎との血縁関係がある時点でこのお方の影響がないなんてことがあるだろうか、いやない(反語)
本論文でも

雄長老が和漢聯句に遊ぶようになったのは、叔父である細川幽斎に導かれてのことであったと思われる。

と指摘されているほど。
幽斎さんを起点に里村紹巴や中院通勝ともつながっていったりして、英甫にとって母方の叔父である幽斎さんとの「肩肘張らずに和漢聯句を楽しむ間柄」がどれほど得難いものであったか、想像に難くない。
また参加者には英甫だけでなく、玄圃霊三(松井康之の母方の叔父)や梅印元冲(幽斎の同母弟)、少ないけど雲嶽霊圭(沼田麝香の甥)の名も見える。
細川家界隈の僧侶たちが勢ぞろいって感じですね!

②では、その幽斎さんや紹巴がやはり「地下」であることからなかなか禁中の会には呼ばれない(呼ぶことができない)一方で、英甫は後陽成天皇に重用されていたと。

雄長老は、慶長前期の堂上の和漢聯句において、漢方作者として欠くことのできない存在となっていたのである。

こちらにも、玄圃や梅印が参加している記録もあり。
梅印は後陽成天皇漢詩関係の講義をしていたりもするので、かなり天皇から信頼されていたのかも。

③では、経験豊富な英甫が指導的な立場で稽古をしていたのだろうと推測されている。
和句ができる作者が少ない場合には、和漢両方の句を英甫が詠んでいたのだろうと分析されていて、さすが幽斎さんの甥()ってところです、うん。

2本目:英甫永雄と狂歌

英甫といえば、狂歌ですよね。「近世狂歌の祖」なんて呼ばれることも。
この論文では、英甫の狂歌咄を基に、彼の詩文集である「倒痾集」などとの関連についてまとめている。
狂歌咄として有名な「醒睡笑」には英甫のことが24か所に出てくるし、その母である宮川尼(つまり幽斎さんの姉)のことも2か所出てくる。
本論文の序論には「五山の傑僧であった英甫永雄」とか「五山の禅僧として和漢の学に秀でつゝ、一方、艶詩をはじめ、狂歌の名手として世に名を馳せていた」とか書かれていて、にやにやしちゃうね(単純)

この論文でなんかしんみりした一文はこちら↓

彼の著述を一覧すると、五山という伝統を背負いながらも一個の自由人として生きた観も強いのであり、時には五山の頽廃と見なされようとも、己の忠実な心の表現は、当時にあっては新鮮な声だったのではなかろうか。

補注には、英甫の詠んだ約130首の狂歌がずららっと掲載されているので、気になる方は是非図書館などで複写をゲットしてみてください~!
その中に気になったものがあったので1つだけピックアップ。

わつらひは玄旨となをる幽斎のなをもこゝろは長岡のきやう

ちょっと何をかけているのか無知な私にはわからんのですが(ダメやん)めたくそそのまま幽斎さんのこと使って詠んでるぅぅぅぅwwww
ここにも叔父との気安い関係が透けて見えますねぇ。
うーんでもこれ、どういう意味なのかな。
長岡京と幽斎玄旨、を、なにかしら文字っているんだろうけども。。。

前の記事でも触れましたが、幽斎さんと英甫は、文学的にも強く結びついていたことがこの狂歌からもわかりますよねぇ。