細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

英甫永雄と建仁寺十如院 / 論文紹介


英甫永雄に関する論文をご紹介。
彼については、これまで何度か記事にしてきました↓
参考①
英甫永雄について調べてみた / 論文紹介3本 - 細き川に溺れたい
参考②
英甫永雄の画像讃 - 細き川に溺れたい
参考③
英甫永雄の文芸 / 論文紹介2本 - 細き川に溺れたい
参考④
英甫永雄の頂相 / 論文紹介 - 細き川に溺れたい
参考⑤
10月に関わる英甫永雄の狂歌 - 細き川に溺れたい


今回はけっこう古い論文ですが、面白い内容があったのでメモメモ!

伊藤東慎, 狂歌師雄長老と若狭の五山禅僧, 禅文化研究所紀要, 3, 75-93, 1971

若狭武田家と建仁寺十如院

建仁寺には「十如院」という塔頭があったのですが、英甫はここの住持だった。
以前の記事でも触れましたが、英甫は若狭武田家の出身なのですが、この家からはかなり多くの五山僧を輩出しているらしい。
で、論文によるとその面々は

いずれも十如院の住持となるか、あるいは同院に寄寓するか、何らかの関係を持っている

らしいのですよ!
さらに

山九峰以成以後ほとんど武田家出身者で占められたから、同家によってなかば私有化されたような観があった

ということで、さらにさらに

武田家の勢力の消長と、十如院における五山文芸の盛衰が、その軌を一つにしている

とかも書かれている!

で、面白いなぁと思ったのはこちらの一文↓

英甫は同家の没落の時期に当り、いうならば五山文学の掉尾を飾る一異彩であった

ほんほん!これは興味深いなぁ。
五山も退廃が進んでいる、かつ、武田家の没落の時期とも重なる時期に五山僧であった英甫は、近世的狂歌の第一人者で、艶歌も読んでいたりして、なんというか、確かに普通のエリート禅僧って感じではないですよね。
実家が落ち目にあること、自分が属する集団も社会的な尊敬を徐々に受けなくなりつつあったこと、それでも学び修行する身である自分・・・アンビバレント・・・

病弱だった英甫

さらにいえば、英甫は元来病弱な方だったらしいのですよね。
詩歌にも病を患っているような内容が多かったり、そもそも自分の詩集に「倒痾集」と題をつけていることからもそれが表れている。
思い通りにならない身体を持ちながら、それを皮肉ったりしつつ、懸命に生きたのかなぁなんて。

そんな英甫の禅における師は、父方の叔父である文渓永忠という人物で、
文芸活動においては、母方の叔父である細川幽斎の影響を受けている
ふたりの叔父が英甫に与えた影響はいかばかりだったろうか・・・

病に苦しむ身の上でも、禅僧だけでなく公家や武家などとも関わりながら、文芸活動を通して充実した生活をおくれていたのかなぁ。
前述の記事でも、英甫の死を悼んで詠んだ幽斎さんの和歌を紹介したけれど、幽斎さんも英甫の鋭敏な感覚には一目おいていたんだろうなぁ。
彼を取り巻く環境が落ち目にあることによって、さらに自分自身の心身のはがゆさによって、彼が後世に”近世狂歌師中の第一人者”と呼ばれるまでになったこと、細川家のオタクとしては泣ける(お前が泣くのかよ)

論文では、南禅寺の玄圃霊三(松井康之の母方の叔父。こちらの記事参照)が英甫の死に際して詠んだ悼偈も載っています。
細川家に関わる禅僧たちは、それぞれに直接の血のつながりはなくとも、確かにネットワークを築いていたことがわかりますよねぇ。

「永雄」の読みについて

あと、今回の論文で「おお!!」ってテンションあがったのが、諱の読みについて触れられていたこと!
文脈ぶった切って、該当箇所のみを引用しますが↓

「復生楊雄」というのは、自らを中国の楊雄にあてるとともに、かれの諱を「えいゆう」ではなく、「ようゆう」と発音すべきことをほのめかしているように思う。

ですよねぇぇぇ!!!!!!!!!!

一般的に英甫永雄には「えいほえいゆう」という読み方と、「えいほようゆう」という読み方が混在しているのですけど、(超絶個人的な事情もあり)私はだんぜん「ようゆう」派なんですよ!!!!
なんで、この一文を読んでめちゃくちゃ興奮しましたですよ!!!!やっぱそうだよな!!
なんの因果かこのブログに流れ着いて、この記事を読んだ方は是非、「ようゆう」派になってください!!笑

※ちなみに「楊雄」については全然よくわからんくて検索したところ、前漢時代の文人?あるいは「水滸伝」の登場人物っぽい?
水滸伝の方の楊雄は、黄みがかって顔色が悪いとされていたらしく、英甫も病弱で顔色が悪かったとか、そういう意味で自分と重ね合わせたのかな?