細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

忠興から忠利への悼歌


(これが2023年最初の記事、だと・・・・?)
(もうすぐ6月ですけど・・・???)
(そして一発目の記事がこんな号泣案件でいいのか・・・・??)

忠利が危篤になった際、孫の光尚へ細川三斎(忠興)が送った書状(寛永十八年三月十四日付、忠利が亡くなる三日前のこと)をご存知の方も多いのではないでしょうか?
急な危篤の知らせに八代から驚きかけつけてみれば、それまで「大丈夫大丈夫」と言っていた息子は死に体で、取り乱し動転したまま孫に知らせる老人の姿が思い浮かぶような、切ない書状です。

東京大学史料編纂所が「史料集版面ギャラリー」にて書状の内容を公開してくれているので、リンクを貼っておきます↓
こちらからどうぞ

歴戦の猛者、荒れ狂う戦国時代を生き抜いた豪傑な細川忠興/三斎が

絶言悟候

我々事之外困、無正躰候間

と孫へ悲痛な思いを吐露している。
三斎がどれほどショックを受け、うろたえているのかよくよくわかります。泣ける。ただただ泣けます。

で、忠利の死に際して三斎が詠んだ悼み歌があるのですよ。
それがこちら

行も道ゆかぬも同しみちなれと つれてゆかぬをわかれとそいふ

うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんんんん(号泣)

ひとかたならぬ情を抱いていた正室明智玉(ガラシャ)が産んだ息子は、3人。
うち長男忠隆・次男興秋は、父忠興とは道を分かつことになった。
そんな中、自分の後を継いだ三男忠利への、忠興の期待や執着はいかばかりだったろうか。
自分の方が先に逝くと思っていただろうに、まさか忠利に先立たれ、残されてしまうとは想像もしていなかったでしょう・・・

危篤の際の書状と、この歌を、合わせて読むと、もう・・・・・・(崩れ落ちる)(嗚咽)

三斎はたいへんたいへん長生きでしたから、両親はもちろんのこと、正室、子どもたちや、知り合いの多くに先立たれているわけですよね。
次々と仲の良い人、親しい人、様々に付き合いのある人が減っていき、戦場を駆け抜けるような時代も遠く過ぎ去り、穏やかに、そしてどこか窮屈になる世の中を、どのように見ていたんだろう・・・
忠利だけでなく、自分の八代城の家督を継がせたかった立孝にまで先立たれて間もないうちに、三斎自身も逝ったということが示すこと・・・・


ちなみにこの歌の存在は、↓の論文で知りました。

穴山健, 花田富二夫, 久保田啓一, 奎堂文庫所蔵郷土資料第二 歴史資料篇『南関紀聞』『細川御伝記』(上), 有明工業高等専門学校紀要, 23, 12-34, 1987

『細川御伝記』というものの中に、出てきていたのでした。
この論文はこのHPにアップされてます。気になる方は第23号をご覧ください~


この伝記の画像はARC古典籍ポータルデータベースで見ることができまして、50頁が該当部分でした。
(いまだに崩し字わからないので、私には読めないのだが←)