細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川家の家臣団編成の過程とは / 論文紹介


2021年11月に参加した熊本大学の稲葉継陽先生の講演をふまえて、以下の論文を読んだらなかなか面白かったのでご紹介。
(講演のことはこちらで記事にしました)

吉村豊雄, 幕藩制成立期における大名の権力編成と知行制(一) : 細川氏を中心に, 熊本大学 文学部論叢, 41, 1-29, 1993

熊本大学リポジトリで公開されています。
こちらからどうぞ。

青龍寺以来」の家臣団とは

細川藤孝桂川以西=西岡地域の「一職」支配を信長に安堵されて以降、細川家はいわゆる大名家として進んでいくわけですが。
その中で、旧室町幕臣たちや在地領主たちを組み込みながら幕藩体制を成立させていくんですね。

本論文によると、藤孝が西岡(乙訓)地域に入城した当初の軍勢は、
①細川家譜代=有吉立言・斉藤元実
②旧室町幕臣=沼田清延・松井康之
③西岡地域の在地領主=志水清久・革島一宜・革島市介
④その他
という感じらしい。

で、永青文庫に伝わっている勝龍寺城の絵図を見てみると、細川家臣の中核を成すのは旧室町幕臣であることがわかる。
本丸や沼田丸といった城の主郭部分に隣接して、「沼田屋敷」「松井屋敷」「米田屋敷」が存在している。
そして城の北限には「神足屋敷」、南限には「築山屋敷」があって、神足家は西岡の被官、築山家は幕臣の一員とされていて、それぞれ現在の地名にも残っていて在地の有力者であった。
つまり、細川家に近しいところには幕臣として同僚ともいえる者を「客分」として家臣化するために置いて、在地の有力者にはもともとの在所をあてがいつつ城の外側に配置する、みたいな感じだろうか。
後に三大家老の一家となる有吉家については、屋敷名は残っていないわけですが、論文では「細川元常代の長臣」であり、沼田・松井・米田がくるまでは譜代筋の中心であったと指摘されている。
(ちなみに、米田屋敷の近くには「中村屋敷」があって、こちらは忠興を養育してくれた中村新助のおうち。後の知行もそこまで高くなく、おそらく藤孝の譜代筋の者だろうとのこと。ふむふむ、譜代筋だからこそ永禄の変後のゴタゴタにあって忠興を連れていけなくなった藤孝から、熊千代くんを預かったという感じかしらん?)

青龍寺以来」と称される家臣たちも、慶安三年(1650年)まで存続したのは二七家なのだとか。これが多いのか少ないのか、私にはわからぬ。。。
二七家には、別格的な松井・有吉両家は含まれておらず、有吉以外に譜代はおらず、西岡の国衆だった志水・神足が国替に従っている、といった特徴があるとのこと。
ふむふむ、筆頭家老である松井家と、唯一の譜代である有吉家は、もはや別格なのかぁ。

沼田家の存在感

細川藤孝やその周辺、あるいは室町幕臣周辺といってもいいかもしれないけど、とかく沼田光兼の娘や孫娘たちが嫁いでいるんですよね。
細川藤孝、築山貞俊、飯河信堅、荒川晴宣には娘が、細川興元、米田求政や松井康之には孫娘が、嫁いでます。ものすごく姻戚だらけ。(康之の正室・自得院については、いったん藤孝の養女としてから嫁がせてる)
福井~京都を結ぶ交通の要所である熊川をおさえていた沼田家は、けっこう幕臣の中でも顔が広かったんでしょうね。
婚姻戦略で幕臣たちとの強固なつながりを得ていきつつ、徐々に頭角を現していく細川家や明智家に組み込まれていくって感じかなぁ。
本能寺の変後、細川家に明智光秀の書状を届けたのは沼田光友、この論文の沼田家系図では「直次」となっている人物で、麝香さんのきょうだいの一人。のちに米田是政について最終的に細川家家臣になったらしい)

稲葉先生のご講演でも、これまで何度も沼田家が娘を有力者に嫁がせて地盤を固めていたっていう話が出てきましたもんね。

細川家家臣団の主流は室町幕臣出身者である

本論文では、かの有名な「古来番附」いわゆる「丹後細川能番組」の出演者記録から、やはり細川家の家臣の中核は幕臣出身者で固められていたと指摘。
この記録を見る限りは、在地の国衆層の比重は小さいのだそう。

これは私が前から思っていたこととも合致しますが、藤孝さんはやはり幕臣出身者、つまりは自分の元・同僚たちで能力のある人物は陰に日向に、登用している節がある。
自分の家臣に取り込むだけではなく、秀吉や家康に紹介したりもしてますもんね。
初期の細川家にとって、足利から一緒に離反して信長に、ひいては自分についてくれる有能な人材は、とてもとても心強かったでしょう。
その中でも、特に有能だっただろう松井と、信頼している妻の実家である沼田と、譜代筋といえる有吉と、文武に長けた米田と・・・こういった家々の者たちは特別に重要な位置を占めていたと考えてなんら不思議はない。

もちろん、志水、神足、築山なども、「大名細川家」の始まりの土地ともいえる西岡から九州まで付き従ってくれた「青龍寺以来」の家臣たち。
こういう領地となった地域の国衆たちの力も借りながら、最終的には54万石もの大国をおさめることができるようになったってことですねぇ。

細川家が今日まで続くことができたのは、どう考えても有能かつ信頼のおける家臣がいてくれたからこそ。
そしてそんな有能な家臣たちに見限られずにやってこれたのは、歴代細川家当主や御家に魅力があったからこそだなぁと改めて。