細川家関係者には、禅寺の住持についている人がけっこういる。基本的に全員臨済宗ですね。
特に有力な寺に関わっている人がほとんどなので、とりあえずまとめておく。
(名前のフリガナは私が「一番可能性が高そう」って思ってるやつです)
- 松井康之の叔父 →
玄圃霊三 (1535年~1608年)(姉が康之の母、つまり松井正之の妻) - 細川幽斎の弟2人 →
玉甫紹琮 (1546年~1613年)、梅印元冲 (1552年ころ?1559年~1605年)(おそらく幽斎と同母である智慶院の息子たち) - 細川幽斎の甥 →
英甫永雄 (1547年~1602年)(幽斎姉の宮川尼の息子) - 沼田麝香の甥 →
雲嶽霊圭 (母が麝香と姉妹、雲岳霊圭とも)
梅印の生年は確定できず、雲嶽の生年は不明なのですが、年代的には玄圃が一回り上で、後の4名はだいたい同年代って気がします。
比較的資料が残っていたりする人物については、今後個別に記事を書きたい(願望)
≪2021.11.23追記≫
慶長三年に39歳で南禅寺に入院したという史料があるらしく、それに基づき、梅印は永禄二年生まれらしいことを知ったので、一部修正しました〜
南禅寺
京都東山に位置する南禅寺。臨済宗の禅寺の中でも、特に名高いですね。
所謂「京都五山」の一角だったのが、その上に置かれる別格扱いのお寺になった感じ?ですかね?
とにかく、日本の禅寺の中でも最も格式の高いお寺といわれているそうな。
この南禅寺の住持には、以下の3名がついている。
- 266世:玄圃霊三
- 268世:梅印元冲
- 273世:雲嶽霊圭
ちなみに、彼らの前後に住持についている人の中には、ちらほら有名人が。
例えば、267世の華渓正稷は安土宗論に判定者として関わっているらしいし、270世の以心崇伝は「金地院崇伝」として有名な僧侶です。
崇伝は、もともと玄圃霊三に師事していましたし、関わりが深いのですよね。
間に人を挟みますけど住持になった時期も近く、細川家と松井家と沼田家の縁を考えれば、当然3名は顔見知り以上の関係だったでしょう。
この時代の南禅寺が、細川家関係者にとって非常に重要なお寺だったことは確かだろうなぁ。
で、南禅寺と言えば「天授庵」ですが、こちらは玄圃霊三が弟子・法嗣でもある雲嶽霊圭を庵主として指名して再興させたんですよね。玄圃と雲嶽には血のつながりはないはずですけど、お互い細川家に縁をもつ人と血縁関係があって、もともと顔見知りだった可能性は大だと思います。また、玄圃の兄の妻も、雲嶽の母も、ともに沼田家の出身で、つまり麝香さんの姉妹なんです。沼田家とのつながりでもある。
そういう縁もあって幽斎さんも庇護して、幽斎・麝香夫妻の肖像画やお墓が残っていて、毎年紅葉の時期のライトアップではスタッフさんが九曜紋の法被を着ておられるくらい細川家と縁が深い。
実は庭園内には桔梗が植えてあったりして、エモい・・・(藤孝と光秀のブロマンスに夢見てる)
建仁寺
四条河原町の近くにある建仁寺。「京都五山」の一角。
俵屋宗達や海北友松といった一流の絵師の作品など、貴重な文化財をたくさん所有している。
また、塔頭のひとつである「正伝永源院」は、和泉上守護家の細川頼有と縁が深く、その家の養子に入った(とされていた←近年の研究でその説は見直されていますが・・・)細川藤孝からの縁で、近世細川家の菩提寺ともなった「永源庵」を元にしている。
この「永」と、藤孝の戦国大名としての始まりの地である青龍寺城(現在の勝竜寺城)の「青」から、「永青文庫」の名はとられている。
話がそれましたが、そんな建仁寺の住持になったのは↓
- 292世:英甫永雄
父方の叔父(父の弟)である289世の文渓永忠に師事したそうな。
ちなみに英甫は幽斎の姉の息子(英甫にとって幽斎さんは母方の叔父)なので、この文渓永忠と細川家は直接は関係ないのですが、まぁ姻戚ではある?
大徳寺
もとは京都五山より格上だとか天皇に認められていた時代もあったようですが、足利将軍家から軽んじられて五山一派からは除外された感じ?
しかし禅寺としては有名な部類ですよね。
信長・秀吉関連でもよく名前が出てくるお寺でしょうか。
こちらは幽斎さんのすぐ下の弟が住持になっている。
- 130世:玉甫紹琮
玉甫は、秀吉や千利休とも関係があることで知られる117世の古渓宗陳の法嗣になっている。
ちなみにこちらも有名な「沢庵和尚」こと沢庵宗彭は、この玉甫に推薦されて大徳寺153世の住持になったのですが、わずか3日でやめってしまったそうなwww
やめてあげてよww玉甫の立つ瀬がないやないかwww
で、細川家関係といえば大徳寺ならば「高桐院」ですね。
こちらは父・幽斎の菩提を弔うために細川忠興が叔父である玉甫に開山させた塔頭です。
訪ねてみたいのですが、工事→コロナ禍で残念ながらずーーーっと拝観休止している・・・
僧侶たちのサポート
と、まぁ、当時の僧侶たちの政治的な影響力などを考えると、細川家にとって有力な禅寺に彼らがいてくれたことで得た恩恵は計り知れないだろうと思うのです。
細川家は、室町~戦国~江戸と時代の荒波を見事に渡り切るわけですけど、彼ら僧侶となった血縁者たちのサポートがなければ危ういこともあっただろうなぁ。
漢学にも長けていた人物が多いので、宮中での和漢聯句の会にも出入りしていて、天皇や公家たちともつながりがあった。
戦国時代の茶の湯と同様に、こういった文芸活動の場での会話や噂話から、これらの僧侶たちが細川家にとって有益な情報をもたらしてくれることも、きっとあったでしょう。
今後、彼らに関する論文ももっと増えればいいなぁ(研究者の皆さまいかがでしょうか!?)