細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

玄圃霊三について調べてみた / かるく論文紹介あり


以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。

禅寺の頂点でもある南禅寺266世住持である玄圃霊三。


松井康之の叔父であり、当時の五山屈指の名僧であったらしい。
以下、玄圃について調べて、現時点でわかったことをできうる限り羅列します。
後から増やすかも・・・

生まれ

足利幕臣だった荒川澄宣の息子。生没は1535年~1608年。幽斎さんの1歳下、吉田兼見と同い年。
兄に荒川晴宣がおり、姉は松井正之(広之?廣之?とも)に嫁いだ。その姉が生んだのが、松井康之ですね。
なので康之にとっては、母方の叔父ということになります。
ちなみに、兄・晴宣の室は沼田光兼の娘なので、麝香さんと姉妹。晴宣と藤孝は沼田家の婿同士にあたります。姻戚ばっかだよなぁホント。

秀吉の朝鮮外交

漢詩に堪能ということもあり、秀吉の朝鮮出兵の際には東福寺の惟杏永哲や相国寺西笑承兌とともに、外交僧として明や朝鮮との交渉役を任されていた。
この時は忠興も従軍してますし、その下で甥の松井康之やその長男である与八郎も出兵している。残念ながら与八郎は、この戦で負った怪我が原因で亡くなってしまうのですが・・・(次男である興長が松井家嫡子となった原因ですね)
秀吉は松井康之のことをめちゃくちゃ評価していましたし(なんせ直接自分の配下につけようとしたもんな)そんな康之の叔父であり、有能な玄圃のことも信頼していたってのは全然おかしくないですよね。
ちなみに、西教寺の絹本著色豊臣秀吉像の讃は玄圃と惟杏永哲によって書かれているそうな。

近衛家

近衛家細川藤孝の関係性が深まるきっかけは、この玄圃が近衛家と親しかったからではないかと五山文学を研究されている中本大氏は論じていたりする。
そのことについて触れられている論文はこちら↓

中本大, 永禄3年正月の近衞家の文事--近衞稙家新年試筆詩をめぐって, 立命館大学 論究日本文学, 84, 1-11, 2006

全文読めます→こちら

有名な弟子

玄圃に師事していた弟子で、有名人もいます。
以心崇伝。「黒衣の宰相」として有名な金地院崇伝のことですね。
足利幕臣の一色家に生まれたが、幕府が織田信長においやられ父・一色秀勝が幕府に殉じたことで、4歳で南禅寺に預けられ、玄圃に師事していたらしい。
時の将軍(的な立場の人)と交際することができる能力は、もしかしたら玄圃譲りとも言えるかもしれませんねぇ。
足利幕臣関係者たちは、なんだかんだとお互いに蔭に日向に助け合って次の時代へバトンをつないでいる気がします。幽斎さんもそういうところあるある。

後陽成天皇

後陽成天皇の和漢聯句にちらちら参加している。
当時の公家の日記にも、「南禅寺の三長老」として出てくるようです。
五山僧は特に漢詩に堪能な方も多く、後陽成天皇漢詩にハマっていた時期には高僧たちが宮中の句会によくお呼ばれしていた模様。
幽斎さんの弟である梅印元冲も、後陽成天皇周辺でちょこちょこ見かけます。

できる男・玄圃霊三

玄圃のことを調べていると、けっこう「当時屈指の名僧」とか「俊英」とかいうワードに出会う。
マジでできる男だったんだろうなぁ。。。
なんとなく無茶ブリにも応えちゃう康之との血のつながりを感じますよねぇ。

南禅寺と宗雲寺

どちらも玄圃にゆかりの深いお寺。
南禅寺はいうまでもなく、玄圃が266世住持となったお寺。十如院や聴松院、天授庵などの塔頭が特に縁があるかな。
臨済宗禅寺の中では特に格式の高い。

宗雲寺は、丹後時代の細川家で久美浜を任されていた甥の康之に、父・正之の菩提を弔うため再興を依頼されて、玄圃が中興の開基となったそうな。
そのため宗雲寺には、玄圃ゆかりの品も多く伝わっているのだとか!
このお寺ももちろん、臨済宗南禅寺派

肖像画

弟子であり、南禅寺273世の雲嶽霊圭の求めに応じて作成され、玄圃自身が讃を書いている肖像画が宗雲寺に残っています。
コレ↓!
デジタルミュージアムF33玄圃霊三関係資料/京丹後市

雲嶽霊圭は、そう、沼田麝香の甥ですね。玄圃の法嗣でもあり、彼に指示されて天授庵を復興した人物でもある。
現在の福井県、若州前川城主・山形刑部少輔に、麝香さんの姉妹が嫁いで生まれたのが雲嶽です。
玄圃と直接血のつながりはないけれども、荒川家・沼田家(+細川家・松井家)とのつながりを考えれば、単に師弟の関係だけではなかったでしょう。
ちなみに、雲嶽は天授庵の「細川幽斎夫人像」にも讃を書いています。「幽斎像」の方は以心崇伝です。2人とも玄圃の弟子ですねぇ。

中院通勝

女性関係でやらかし()、後陽成天皇の勅勘を蒙った後、幽斎さんのいる丹後で20年近くを過ごした中院通勝。
ネットで検索していたところ、通勝が丹後にいた頃に玄圃について剃髪し、宗雲寺の開山塔を也足と号したことに因み「也足軒素然」と称したという話が出てきた。
へぇ!也足軒の由来が、宗雲寺とは知らなかったぁ!
通勝は幽斎さんの文芸上のパートナーともいえる相手ですし、当然ものすげぇインテリ。
漢詩もできたでしょうし、玄圃と話も弾んだのだろうなぁ。



とりあえず、現時点でわかったことだけまとめました。
玄圃、やはりデキる男ですな・・・
今後も新しい情報を得たらアップデートするなり、記事を増やしたいですね。
情報提供大歓迎です!笑