細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川幽斎・沼田麝香夫妻と末男・細川孝之の図


2019年に肥後銀行の「肥後の里山ギャラリー」で、↓の展示をやっていて、観に行ったんですよね。
永青文庫展V 細川幽斎 文華の DNA-当代随一の教養人 幽斎-」

参考①
参考②

なんと無料!(肥後銀行さん太っ腹!!)
だったので、熊本旅行中の空いてる時間に2~3回訪れた記憶www
(平日1日だけの休みをつかって訪熊したような・・・夜行バスで行ったんだっけな・・・?笑)


この時の展示の中に、細川幽斎・沼田麝香夫妻を上部に置き、左下部に息子の細川孝之を配した絵図が出ていたんですよ。
展示リストを見返してみると大徳寺高桐院所蔵の「細川休斎孝養図」というらしい。なんと九州初公開だったようだ。
構図がすごく珍しいし、孝之の両親への敬いの心がよく表れている気がして、めちゃくちゃ「良い!!」って思った。

で、最近中古で手に入れた高桐院の冊子を眺めていたら、この絵図が載ってたんですよぉ!!!
該当ページを撮ったので汚いですが、こんな感じの絵です↓

幽斎・麝香夫妻は、天授庵や永青文庫に所蔵されている遺像をほぼそのまま写している感じでしょうね。
んで、両親を拝むような位置に二人の末男である細川孝之(休斎)がいる。
この図自体は、この孝之の求めにより描かれたもので、複数人が同じ画面におさまり、3人それぞれに讃が書かれているのも珍しいらしい。
その讃3つ全てを書いたのは、幽斎さんの弟であり、甥の忠興からの依頼でこの高桐院の開山となった玉甫紹琮の法孫にあたる高桐院3世の清巌宗渭とのこと。

幽斎さんの最晩年、最期まで両親のもとにいたのはこの孝之だったでしょう。
孝之に自分の跡目を継がすんだ、という新年の気持ちを表したとされる幽斎さんの和歌が残っているし、いつか紹介したい山田貴司先生のとある論文でも、幽斎さんの遺品の多くはこの孝之が引き継いだことが指摘されていた。
孝之は長兄の忠興とは20歳以上年が離れていて、甥である忠利とは1歳しか違わないんですよね。
いつも拝見させていただいているこちら↓のブログでは、忠利が年の近いこの叔父に頭を悩ませていたことを記事にされています。
■忠利と叔父・孝之の仲(一) - 津々堂のたわごと日録

幽斎・麝香夫妻にとっては、かなり高齢になってからできた息子ですし、可愛くないわけないはず。(幽斎さんが50歳、麝香さんが40歳くらいのときかな)
両親から愛されてきたのであろうことが、その3人が同じ画面に描かれている図からもよくよくわかる気がします。
そしてそんな感じだからこそ、多少なりとわがままというか、甥である藩主の忠利を困らせるような性格になってたとしても、まぁ不思議ではない(笑)

幽斎・麝香夫妻には10名ほどの子がいたとされていますが、長男・忠興、次男・興元、三男・幸隆以降には、あまり男児には恵まれず、2人の息子が幼いころに亡くなっている(菊童と蓮丸)
そういう事情もあって、亡くなることなく大きくなった四男(末男)孝之のことはことさら可愛がっていたのかもなぁと妄想しています。

ちなみに法号の「休斎」は、孝之の年上の甥である細川忠隆の「休無」と、父である細川藤孝の「幽斎」からドッキングしているのかなって妄想もしているw
忠隆は廃嫡後に京都にいて、祖父母の世話になっていたという話もあるし、そうなれば必然的に老親のそばにいた孝之とも触れ合う機会は多かったのではないだろうか?
忠隆は能(だっけかな?)にも明るく、親戚筋の公家たちとも交流をもっていた文化人でもあったようだし、その年上の甥を孝之が尊敬していたって側面はあるかなぁと。

あんまり細川家関係の展覧会とかでも出てこない絵図だと思いますが、またいつか観たいですねぇ。