細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

『慶長日件録』に出てくる細川家関係者②

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順番を完全に間違えていますが(苦笑)
この記事↓は舟橋秀賢の『慶長日件録』の慶長九年~十年あたりのことを書いていました。
hohshoy.hatenablog.com


で、その後ちょっと気になって前半部に出てくる細川家関係者も調べてみた!
日記は慶長五年から始まっています。とはいえ、慶長五年は正月と二月、慶長六年は九月と十二月、慶長七年は二月と三月と十二月しかないのだが。

  • 「慶長五年正月」下旬には、「羽與一」という名前が数日に渡ってちらちら。羽柴与一郎=忠興、ですね!あと南禅寺語心院に行ったけど「冲長老」は具合が悪くて対談できなかったらしい。
  • 「慶長六年九月十三日条」には「従羽柴越中守有使之、嫁娶日取、所望之由也、使、松田七左衛門也、蔭凉軒同途也、則撰吉日、遣之」という記事が。うーん、誰の結婚の話なのかしら?忠興の息子の誰か?
  • 「慶長七年十二月十二日条」には、禁中での和漢の句会に「梅印」が参加しています。西笑や崇伝も一緒に参加してますな。
  • 「慶長八年正月二十三日条」には、「長岡越中守忠興」のところへ行って菓子折りを進呈している。
  • 「慶長八年二月五日条」には「豊前長岡越中、息女、年筮認、遣之」とあり、忠興の娘の誰かの年間占いをしたためて、おくった感じ?ナニソレ可愛い!忠興の娘の誰ちゃんなのかな?長は慶長八年に亡くなっているっぽいし、古保・多羅・万のうちの誰かかなぁ?
  • 「慶長八年三月十五日条」には、「也足軒」が来た後、「宮川殿」という人物も秀賢宅を訪れている。

・・・・・この「宮川殿」って「武田信高」じゃね・・・・!?!?!?
先日「宮川智光院」なる人物って誰よ?という記事で、触れていた宮川尼の夫。
うーーーん、コレだけじゃもちろん断定はできないけど、でも、ありそうじゃね!?

  • 「慶長八年八月二十三日条」には、揚明という場所において和漢聯句の会があったようで、「南禅寺三長老、冲長老」が参加している。

やはり気になる全斎

それから、前半部にも「全斎」なる人物は散見されます。
これはやっぱり「幽斎」なのかなぁ・・・?

  • 「慶長八年五月十七日条」には、「全斎」がやってきて、一緒に晩御飯を食べて、その晩に「三條西殿」へ行って色んな名筆を見せてもらって驚愕!みたいな記事もある。

コレ、秀賢と一緒に「全斎」も三条西家に行ってるのかしら?もし全斎⇔幽斎ならば、幽斎さんと三条西家の関係性を考えると、スッと入ってくる行動だなぁと思うわけですが。
それから慶長八年を見てると、「全斎」は「家君=著者の父親、清原国賢」ともちらちら行動一緒にしてる感じかな。国賢は幽斎さんより10歳下。細川家界隈では「清原マリア」の兄として有名でしょうか?

ところが・・・!?

とかメモりながら日を進めていたらば!?!?!?!?
「慶長八年十二月三日条」に突然「幽斎来談」と出てきましたけど!?!?!?!?
いやいや突然すぎるってwwwww

ええーーーーー??私が見落としてるだけで、普通に「幽斎」って出て来てたのかなぁ!?!?!?
その他にも

  • 「慶長八年十二月二十日条」に「幽斎近所之間、則立寄」とか
  • 「慶長八年十二月二十七日条」には「幽斎簾中より白綿貮把、被恵之」とか
  • 「慶長九年閏八月九日」には「幽斎見舞二行、今朝、豊前ヘ下向云々」とか

ちょっと間があいて

  • 「慶長十年九月八日条」には「幽斎ヘ行」とか

忠興よりは出現回数は低いですけど、出て来てるぅぅ(笑)
やっぱり「全斎」とは別人なんですかね・・・???

別人だとすると「全斎」は医者的な感じの人かなぁ?
この人が出てくる記事の中で、「薬」という字が出来たり秀賢が「腹中氣也」になっている日に訪ねてきたりしていることがある。
たまに「竹田梅龍(軒)」という人物と一緒に行動しているっぽいのですが、戦国時代の医者である「竹田定加」とか「竹田秀慶」とかの関係者と考えると、医療関係者同士だったりとか?

あと「意斎」という人物も出てくるのですが、これは「御薗意斎」という人かも?
正親町天皇後陽成天皇にも処置を施した鍼医らしく、どうも忠興とも親しかったらしい。へぇ。

うーーーん、幽斎・全斎問題の謎は深まるばかりwwww