細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

『慶長日件録』に出てくる細川家関係者④ ー全斎・幽斎問題ー

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まだ続くのかよ(笑)
過去の記事はこちら↓
パート①→『慶長日件録』に出てくる細川関係者について調べてみた - 細き川に溺れたい
パート②→『慶長日件録』に出てくる細川家関係者について調べてみたパート② - 細き川に溺れたい
パート③→『慶長日件録』に出てくる細川家関係者について調べてみたパート③ - 細き川に溺れたい


「全斎」「幽斎」問題がいまだ片付かないので仕方ない・・・ww
デタラメながら色々な検索の仕方で「全斎」を調べていたところ、『言継卿記』に以下のような記事があることを知りました!

  • 「天文十四年(1545年)十月十五日条」に「祖母忌日之間、本誓寺僧統全斎に来、相伴候了」

おお!?浄土宗西山義の本誓寺というお寺に「全斎」なる僧侶がいたっぽい!?
これが『慶長日件録』に出てくる「全斎」と同一人物だとすると、60年以上後の慶長十二年頃まで生きていたことになる。
天文十四年に20歳くらいとした場合、80歳くらいまで生きていればあり得る?
いやでも「僧統」ということはそこそこお偉いさんだろうし、そんな若いことはないのか・・・?
うーーーーん、わからん(笑)

豊前下向のことを照らし合わせてみる

手元にある資料・書籍の中で、とりあえず動向がある程度詳しく載っている新人物往来社の「細川幽斎・忠興のすべて」の年表をもとに、幽斎さんが豊前に下向している時期をあげみてる。

  • 「慶長六年閏十一月二十六日」に豊前下向
  • 「慶長七年三月二十一日」に豊前から帰宅
  • 「慶長十年三月三日」に豊前上野村興国寺で墨染めの桜をみて、歌を詠む(with 細川孝之)
  • 「慶長十二年七月七日」に豊前にて飛鳥井雅庸を招いて、蹴鞠・歌会を開催
  • 「慶長十四年六月」に豊前にて飛鳥井雅庸を招いて、歌会を開催

で、前回とりあげた「全斎」に豊前下向関連の記事を再度提示してみる。

  • 「慶長十一年七月九日条」には「全斎豊前下国筮勘之」
  • 「慶長十二年正月八日条」には「全斎豊前へ下向」
  • 「慶長十二年四月十四日条」には「全斎豊前より帰宅」
  • 「慶長十二年五月十四日条」には「巳刻、全斎、豊前へ下国」
  • 「慶長十二年十一月十六日条」には「全斎従豊前帰宅」

とりあえず上記からわかるのは、「慶長十二年七月」には「幽斎」も「全斎」も豊前にいたってことですね。
残念ながら慶長六〜七年の記事はほとんど『慶長日件録』にはないので、幽斎の動きも全斎の動きもわからず・・・
うーーーん、かぶっているのは一つだけかぁ・・・思ったより少ないな・・・

仕方がないので、わりと有名(?)な「慶長十年三月三日」の墨染めの桜を見に行ったときのことをちょっと掘り下げてみる。
『慶長日件録』で「慶長十年三月」に記事を眺めてみると、上旬には「全斎」も「幽斎」も出てこない。
「三月九日条」には「2〜3日前に上洛した忠興が、病気なので見舞いに行った」みたいな記事がある。
その後、「三月十三日条」に「及晩家君・全斎等御出」とある。

お?どうかな、コレ?さすがにこの時代に豊前↔︎京都を十日以内で移動するのは難しいか???
ということはやはり、「全斎」「幽斎」は別人と結論づけていい!?!?!?

と思ったが、「細川幽斎・忠興のすべて」の年表より、忠興は小倉↔︎京都を6日で移動していることがわかる。。。
うーーーーん、結論がでねぇぇぇぇwwwww

「全斎」「幽斎」問題の決着はつかず!

残念!!!!!笑

なんでド素人が、こんなこまけーーことをこんな真剣に調べているのか、自分でもよくわからなくなってきた(苦笑)
そもそもちょこちょこ翻刻の違いがある中(妙庵↔︎好庵など)、国会図書館のデジタルライブラリー本でも、史料纂集本でも、「全斎」は「全斎」で変わらないわけで、なんでこの人を「幽斎」にしようとしてしまったのか。。。
そろそろ黙りましょうwww