細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

長岡京ガラシャ祭歴史講演会「戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~」:参加してきた


11月14日(日)に長岡京ガラシャ祭歴史講演会「戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~」に参加してきました。
今月2度目の講演会!いやぁ、やっと色々な講演が無事に開催されるようになって、嬉しいかぎり!
講師は細川クラスタならご存知、熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽先生。
9月に歴彩館で予定されていた講演も延期になってしまったので、先生の講演をお聞きするのも久しぶりでした。

婚礼の儀

会場で説明されるまで知らなかったのですが(オイ)、講演会の前に別のイベントがありました。オープニングでは太鼓の演奏があり、ひっさしぶりに聴きましたが素敵でした。
それから今年も感染症対策のために、ガラシャ祭の一大イベントである行列巡行と楽市楽座は中止だったのですが、その代替として「婚礼の儀」がステージ上で再現されたのです。
玉と忠興を演じられたのは、長岡京市出身・在住のご夫妻。10組のご応募があった中、抽選で選ばれたのだそうな。
奥様は小柄で、旦那様は身長もあり体格もわりとよくて、身長差のある大変素敵なカップルでしたね~!
忠興と玉もこんな感じで婚儀を行ったのかなぁとなんだかしんみり。
当時の婚礼の儀では、両親は立ち会わなかったそうで、それぞれの侍女が横についてました。へぇ~!

講演会の休憩時間には、京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの皆さんによる演舞もありました。
婚礼の儀も含めて、こちらで一部写真が紹介されてますね↓




講演内容

で、講演会についての個人的メモかつ備忘録。
もちろん詳細な内容や資料のアップはできませんので、概要と気になったところをピックアップ。
講演のテーマとしては永青文庫や熊本に伝わっている史料を基に、西岡地域の国衆たちと細川家との関係を紐解いていくって感じでしょうか。
稲葉先生の講演では当たり前のように、参考資料として翻刻文を添付してくださっていてありがたいですね。(読めないけどね←)
今回初めて一般に紹介する史料もあり、たいへん貴重なお話が聞けて楽しかったです。

講演の流れとしては、藤孝が西岡に入る以前の時代(細川政元による支配)~藤孝時代~忠興・忠利時代の、西岡の国衆の動きをお話しいただきました。
特に、中世ではその「土地」に根差していた武士たちが、江戸時代には「兵農分離」の原則のもと土地とは切り離された存在であったというこれまでの日本史理解における大前提を、西岡出身の武士たちの動きを紐解くことで、より多面的に捉えなおす必要があるのでは?という稲葉先生らしい問いかけが含まれていました。

藤孝が西岡に入城してから物集女疎入を生害するまで”2年”かかったということの意味や、忠興・忠利時代における神足家と築山家の話など、とっても興味深かったですね。

(なんでも、稲葉先生は30年前の院生時代に西岡地域まで足を運んで調べたらしいが、あまりいい史料には巡り合わず、論文も満足いく出来ではなかったらしい。けれどその後に熊本大学に着任して、永青文庫の史料と出会ってあらビックリ、西岡地域に関するものもあるじゃない!ってことに。運命的ですねぇ)

伝わり残っている史料の価値

今回のご講演も、永青文庫や細川家に関係する旧家に確かに受け継がれ、残ってきた史料があるからこそお聞きできた内容でした。
特に築山家の古文書については、2016年熊本地震後の文化財レスキューにおいて稲葉先生自らが救い出したものですし、現在に至るまで様々な努力によって伝存してきたことがよくわかります。
細川家では主君側、家臣側の双方に、豊富に史料が伝わっていることで、400年近く前の彼らの姿が非常に立体的なリアルさをもって私たちの前に現れている感じがします。
ありがたや・・・・

思わず吹きだしたところ

ところで講演中、先生の言い回しや発言内容が面白くて、こらえきれずに吹きだしたところがいくつかありましたww
もちろん一言一句覚えているわけではなく、私の記憶に残っている発言の抜粋なので、イメージとしてお考えください~

  • 神足兄弟からの上申書の裏に書かれた主君の自筆決裁の文字をスライドに映しながら、「この汚い(←といっていたような気がするww)ばーーっと書かれた走り書きのようなところは・・・忠利の自筆です(笑)」「書道の専門家によると『走り書きのように見えて、実はしっかりした文字』とのことだが、私には走り書きにしか見えない(笑)」「忠利の字は慣れないと読めない(笑)」と笑いをまじえて解説wwww
  • わかります、ほんと、豪快な文字なんですよね忠利www
  • 三斎への奉公について「西岡にいる親類たちに協力してもらったから、参勤交代のときにお役に立てた」と神足八郎左衛門尉が書状で説明してるんですが、稲葉先生がすかさず「忠興は勝手気ままに江戸に行きますからね(笑)大変だったでしょうね(笑)」って言っててwwww
  • 勝手気ままに江戸に行く三斎おじいちゃんに振り回される家臣たちが目に浮かぶようですwww

研究者の方のこういうブラックジョークみたいなのいいですよねw
日々たくさんの史料・古文書をたくさん分析しておられる稲葉先生による細川家の面々の評はめちゃくちゃ面白いww

ぐっと来たところ

今回の講演で思わずぐっと来たのは、藤孝と光秀が信長政権下において凄惨な戦の最前線につねにたち「ともに戦場の地獄を経験し共有した」と解説されていたところ。

信長の命により、ある時は「降参してきた者も全員首を切れ」と言われたり、またある時は「避難しているだけの一般人は助けてもいいが、坊主どもは許すな」と言われたり。
敵方の「誰を救い」「誰を殺すのか」、究極の選択をともに経験した2人。地獄を共有する2人。

一方は近世的な統治の基盤を築く過程で主君を討つことになり儚く消え、一方は戦と戦の間を縫って「古今伝授」の講釈を受けて自らを文化的権威にまで押し上げその後も移り変わる時代を渡り切った。
経験や思いは共有しつつ、行動では袂を分かつことになった盟友。

(※古今伝授関係については、従弟である吉田兼見とともに神道の流れの中に組み込み、統一国家の成立に奉仕していくことにもなったとの説明あり。稲葉先生はさすがに、きちんと藤孝と兼見が従兄弟だと説明してくれました)

そもそもの出自の違いや周辺の人間関係の違いもあっただろうけど、やはり藤孝さんはあまりにも冷徹で客観的な視点を持っていたんだろうなぁと思わざるを得ない。あるいは自分の能力や手の届く範囲を熟知していたともいえるか。
人との縁や、それに付随する感情を決して軽視するわけではないけれど、流されることも絶対にないのが細川藤孝・幽斎らしいなと改めて。そんなあなたが好き。

細川藤孝・幽斎の存在を知り、好きになり、細川家にハマって約3年半。
その間に稲葉先生の講演にはたぶん5回以上参加させていただいてますが、いつも楽しませていただいています。
今後とも、先生や永青文庫研究センターの皆様からの貴重な研究成果を世界の片隅でお待ちしております!