「水前寺成趣園350年講演・シンポジウム 」:オンライン視聴しました
2021年11月27日(土)に熊本城ホールで行われた「水前寺成趣園350年講演・シンポジウム 」
本当は現地に駆け付けたかったんですが、なかなか予定が合わず訪熊は断念し、おとなしくYouTubeにてオンライン視聴させていただきました~
コロナ禍による利点の一つは、このオンライン提供が浸透してきたことですよねぇ。ありがたい限り。
それにしても11月は細川家関係の講演会が多かったですねぇ!これで3回目です、充実!
基調講演は奈良大学の千田嘉博先生、パネルディスカッションには細川クラスタにはお馴染みの熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽先生がコーディネーターを務め、千田先生をはじめ、本記念祭の実行委員長であり永青文庫の理事でもある吉丸良治氏、細川家と赤穂浪士との縁から赤穂市長の牟禮正稔氏、観光がご専門の東海大学教授の小林寛子氏。
合わせて3時間40分ほどあったんですが、全てオンライン配信してもらえて、熊本県外にいる我々にとっては本当にありがたかったです。感謝。
いつまで視聴できるのかわかりませんが、以下のYoutubeでアーカイブが見られますので、見逃してたって方は是非。
水前寺成趣園350年記念講演・シンポジウム - YouTube
今のところYoutubeで視聴できるので、内容はけっこう詳細に記録しています。(詳細すぎてまずかったら後でこっそり消します。)
細川綱利と水前寺成趣園
今年は、肥後細川5代の細川綱利公が寛文11年(1671年)に大規模築庭により水前寺成就園を完成させてから350年にあたるのだそうな。
綱利公はあれですね、赤穂浪士大好きで、相撲大好きで、筆頭家老の松井興長に長~~~~い手紙で諫められていた当主です(笑)
父親であり先代の光尚公が亡くなったのは、綱利がまだ六丸と名乗っていた6歳のころであり、家臣たちや姻戚の小笠原家の協力もあって細川家の改易は免れたものの成人するまでは江戸で過ごしていたこともあるのか、非常に自分の嗜好に忠実な側面があった。
後から見れば、色んな文化や人材を大事に扱ったといえるのだろうけど、興長を筆頭に家臣団にとってもはたいへんお世話がたいへんな当主でもあったでしょう。
水前寺成趣園は、何度も訪れていますが、本当に水が綺麗で綺麗で!
毎回驚くくらいの透明度なんですよね。すごく好きな場所です。
園内には細川家の歴代当主が祀られている出水神社があったり、京都から古今伝授の間が移築されてたりするので、熊本には直接関係がない細川藤孝・幽斎とも今では縁が深い場所になっていますね。
細川家にハマってからこっち、年に一度は訪れては出水神社のお守りを買い替えしている私です。
(出水神社のことは以前この記事でちらっと書きました)
千田先生による基調講演
話がそれましたが、今回の講演について。
基調講演をされた千田先生はやはり知名度の高さ故の人気か、長岡京市で開催された講演会などにはいつも応募するものの抽選に落ちておりまして・・・(苦笑)
昨年度までは大河効果(?)もあって、有名な研究者の方が細川家関係の話をしてくださる機会も多かったのですが、コロナの影響で悉く中止や延期となったり、抽選に外れたりで・・・
なので今回オンラインとはいえ、お話を聞けてよかったなぁと。
今回のテーマは「水前寺成趣園・熊本城と細川綱利」
テレビにもよく出ておられますし、講演会にもたくさん出演されているからでしょうが、千田先生のお話はちょっとジョークも混ぜつつ、飽きさせない内容になっていたように思います。
以下、講演で気になったところの個人的メモ
- 太平の世になりつつあった江戸時代では、お城は単に”武”の要素だけがあればいいのではなく、お庭のような癒しの部分も必要。現在のビル群の中の公園や樹木のようなイメージ。
- 今も当時のままのかたちが残るお庭は全国的に見ても数少ない。そんな一つが水前寺成趣園。
- 成趣園の築山の一つは富士山を模していると言われているが、これは宝永の大噴火の前の姿。
- 勝龍寺城の例などを見ても、細川家は藤孝の頃からけっこうアクロバティックなことや先進的なことをしていた。
- 小倉城では低湿地の沼地に石垣をつくることを経験していて、それが熊本での生産力向上にも役立ってる。「沼地のスペシャリスト」でもあった細川家。
- 中世的な伝統を守るだけでなく、加藤清正時代にはなかった最新技術を取り入れて強化、発展させてきた熊本城の石垣。
- ”武”の力ではなく、”文化”の力で肥後を治めていく綱利の志を、水前寺成趣園は伝えている。
本講演のパワーワードは「チキリ」ですね(笑)
今度、成趣園を訪問した際は探そうと思いますよ!
パネルディスカッション
パネルディスカッションの方のテーマは「肥後細川文化の魅力に迫る」
それぞれのお立場から、綱利公や成趣園、肥後熊本に関するお話をしていただきました。
稲葉先生による、基調講演のまとめが大変わかりやすかったのでメモ。千田先生も「あんなに話したのに数分でまとめられちゃった!」っておっしゃってましたw
- 「中世以来の伝統を守るだけでなく先進的なことも取り入れる細川家」
- 「水のある所に石垣をつくる技術」
- 「それを城だけでなく、庭園にも活かす」
- 「日本の中で見ても貴重なものを今後も守っていく重要性」
各氏の話を全て取り出すと長くなるので、以下個人的に気なったところを取り上げます。(それでも長いけどw)
(稲葉先生)
最近見つかった史料において、忠利は良い君主である国内的に知られていたことがわかった。
それ以前がけっこう個性的な君主だったのであまり注目されてこなかった綱利時代だが(苦笑)、実は内政的には「寸志」の制度が初見されたり、「根取」の役職をはっきりと設置している最初期であったりと、その後につながるいいことしている。
1673年(?)家臣同士の決闘があった際には、咎めるのではなく「こんな太平の世にお前のような者がいるなんてすばらしい」って山名十左衛門を家老に取り上げたりした(←コレ、すごく綱利っぽいww)
堀内伝衛門の記録を見ると、浪士たちとは”人間同士の魂の交流”だったことがよくわかる。その縁が今でも続ている。
ある書状には、藩主が不在のときは成趣園の見学OKという内容が見える。武士身分の人だけだったかもしれないが、当時も癒しの場にはなっていた。
(吉丸会長)
小さな頃は江戸にいた綱利は、かなり大きくなってから(二十歳前くらい?)やっと肥後に来ることができた。だからこそ、入国後は領内をあっちこっち見て回った。
水のことをとても重要視していて、よく考えていた。
綱利の二大エピソードは、赤穂浪士と相撲(吉田司家)←有名ですねww
綱利は(決して幕府の意向に背く対応をしていたわけでなく)、怪我の酷い者には医者をつけていいか、煙草は許可していいのか、一つ一つ確認して赤穂浪士の対応をしていた。
(牟禮市長)
細川家にお預けとなった17名の赤穂浪士のお世話をした堀内伝衛門の縁から、赤穂市と山鹿市は姉妹都市。
赤穂浪士から細川家への提言として「蝋をとることができるから、櫨(ハゼ)の木を植えるといい」と伝えたという逸話がある。この逸話が本当かどうか定かではないが、現在熊本県は蝋の生産量で全国の30%を占めているのだとか。
市長のご近所さんの「フクダさん」は、坂越で船関係のお仕事をしていた家系。何か果報なことをしたのか、細川家から御座船の先船をもらったらしく、それが瀬戸内三大船祭りのひとつである「坂越の船祭り」に使われる船の初代だったとか・・・
(小林先生)
熊本の方は謙遜するが、もっと故郷を誇ってください!今日の講演を聞いても、素晴らしい歴史や文化や伝統がたくさん残っているのだから。
水が本当に素晴らしい。水がいいから食べ物もおいしい。
お城のことを景色として楽しむだけ(外観の写真を撮るだけ)の人もいるだろうが、一歩踏み込んで少し歴史や文化を知るともっと知りたくなる人もいるはず。そうすれば自ずと滞在時間も長くなり、お金も落としてくれるようになる。
(千田先生)
幕府がどう出るかわからないリスクがある中で、忖度せずに綱利自身の「武士たるものこうありたい」という思いに従って赤穂浪士たちをもてなした。
江戸時代はお城を維持するだけでも難しいが、細川家は丁寧に修復している。
当時の庭園では、文芸活動や芸能活動が行われていた。そういう体験ができるようになるといい!例えば、赤穂浪士にふるまった二汁五菜を成趣園で食べられるイベントとかいいんじゃない!?(ほかの皆様も「それはいいですね」って好印象でした)
当初の予定を15分ほどオーバーするほどのボリューミーな内容でしたが、大変興味深く聞かせていただきました!
綱利はこう、自分が興味をもったことへの行動力は凄すぎるのがよくわかりますよねぇww
稲葉先生もおっしゃっておられましたが、細川家はなんせ初代~三代(藤孝→忠興→忠利)がそれぞれ毛色の違った個性派でかつ文武に長けた人物も多い上に、興長からの諫状のイメージも強いから、彼らと比べるとどっちかっていうと「ダメ子ちゃん」みたいな印象がある綱利公。
でも彼の”推し”への熱い思いが、今でも赤穂と熊本をつないでいたり、美しい庭園として残っていたりして、私たちを楽しませてくれているわけで。
そんな細川綱利のことを再認識することができた講演でしたね。
ちなみに現地では、11月28日(日)も色んなイベントが目白押しだったようです。→http://www.suizenji.or.jp/suizenji-350th-Anniversary-Leaflet.pdf
出水神社の宝物展とか観に行きたかったなぁ。