すごいタイトル(苦笑)
細川幽斎は1610年、77歳で亡くなります。
あの田辺城籠城戦から10年後ですね。
最期はけっこう老衰というか、耄碌していたらしいことが、八条宮智仁親王の書き残した史料で伝えられています。
そんな幽斎さんが亡くなった場所は、晩年住んでいた三条車屋の屋敷。
なんですけど、「三条車屋」って検索すると「中京区車屋町」とか「北車屋町」とか「南車屋町」とかいっぱい出てくる・・・(汗)
京都に詳しくない私の検索能力と土地勘では、どこに屋敷があったのかよくわからなかったんですよね。
でも続群書類従 第三十三輯上 雑部に収められている「貞徳翁之記」という史料の中に、通りの名前から記載されている部分を見つけた!
そう!我らが幽斎オタクの同志・貞徳くんが残してくれてた!!笑
ありがとうな貞徳くん!!!!笑
ちなみにばっちり自分の邸宅の場所まで書いてくれててさすがだぜ!!笑
詳細な場所
「貞徳翁之記」には↓のように記載がありました。
そのことくかの御庵室も都へうつされて。ほとちかくなりけれは日々に参かよふこそ。住吉の御はからひとありかたく覚へ侍れ。みつからの宅は三条衣のたな。かの御館は姉小路の通。烏丸と東洞院の間。西は場町。北は車屋町と当時申なり。
つまり、今の京都で言うと阪急烏丸駅・地下鉄烏丸御池駅の近くってことですね。
場町というのは、今の住所で言うと「中京区場之町」でしょうね。
姉小路通沿いで、烏丸通と東洞院通の間で、西は場之町で、北は車屋町・・・
このあたりでしょうか!?
ところで貞徳くんの屋敷とはというと・・・三条衣棚ってとこなので・・・・
ちっかwwwwwww
ヨユーで徒歩圏内ですよね、コレwwwww
上で引用した文章でも、「近くに引っ越してきてくださったので日参したぜ!住吉の神様=歌道の神様の御計らいありがてぇぇ!!」って感じでしょ?ww
ホント貞徳くん信頼できる崇拝っぷりww
場所的に訪ねやすそうですし、けっこうその他の弟子やら知り合いやらいっぱい見舞いに来たんじゃないかって気がしますよね。
忠興はこのとき小倉にいたわけですが、危篤の知らせを受けて上京しようとしていました。
ですが、残念ながら死に目には合えずに父・幽斎は亡くなってしまいました。
忠興はこの7年後、母・麝香(光寿院)が江戸で亡くなったときにも、死に目には会えてない。
幼少期の放置期間(という言い方はアレですが)を含めて、なんとなくかみ合わない両親と長男だったなぁと、しんみりしちゃう。
吉田山の随神庵
ところで、忠興が豊前に国替えとなる時分、幽斎さんは、従弟の吉田兼見がいる吉田神社の近く、吉田山に「随神庵」を建てていたようです。
こちらは具体的な位置よくわからない・・・
吉田神社には「幽斎桜」というのがあって、見に行ったことがあります。(桜の季節ではなかったので、私が見たときは只の木でした←)
「兼見卿記」によると、幽斎さんはガンガン、それはもうガンガン、兼見のところへ訪れているので、近くに庵を建てても全然不思議じゃないですね。
「なんでも鑑定団」にもよく出演される増田孝氏が所蔵されている幽斎さん自筆の書状に「吉田に草庵を建てました」と大和宗恕宛てに伝えているものがあるのです。
ちょっと年代まではわからないのですけども・・・
写真全てを載せるのは控えて、幽斎さんの花押と解説のところだけ切り取ります。
↑の写真は、2020年に開催されたこちらの展示会の外の掲示板に貼られていた雑誌記事。
左端の増田さんの解説がまた最高です。引用します。
幽斎の書の線は沈着、行は整然として中心が曲がることがない。その終始一貫した書風に、名門の歌学者らしい品位が漂っている。
うっひょ〜〜〜〜〜!!!!増田先生ありがとう!!!!!!
宛先の大和宗恕というのは、大和晴完という足利幕臣のことのようですね。
つまり、昔の同僚ってことっすなぁ。
この方は106歳で亡くなったらしいのですけど・・・マジで?笑
幽斎さんは、足利幕臣時代の同僚を秀吉や家康にリクルートしていたりしたんですよね。
曾我尚祐とかがいい例でしょうか。
こういうところ、すごぉぉぉく幽斎さんらしいなって思います。
優秀な事務方を望む時の権力者と、新しい職場を探す昔の同僚を、つなぐ役割を担っていたんだろうなぁ。
って、いつも通り話がそれていく・・・