細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

志水宗加による細川幽斎追悼文 / 論文紹介


なんと、細川家家臣のご子孫が書かれた、ご先祖が幽斎の死に際して書いた追悼文に関する論文を見つけてしまった・・・!!
なんというムネアツ案件・・・・!!
こういう論文があると知った時の、ドキドキ感が尋常じゃなかったですww


数日後には文献複写を済ませていた(笑)

志水義夫, 志水宗加の細川幽斎追悼文, 湘南文学, 45, 121-128, 2011

ご本人のブログもちらっとご紹介

著者ご本人は東海大学で教員をされておられるようです。
ブログをやってはって、この論文で取り上げている追悼文に関する記事が↓
https://love.ap.teacup.com/korremitz/1396.html
幽斎没後400年の記念式典にも出席されていたらしいし、ご先祖の足跡も辿られている!↓
https://love.ap.teacup.com/korremitz/1357.html
https://love.ap.teacup.com/korremitz/1364.html

論文複写できないって方は、こちらのブログで是非、数百年続く細川家と家臣のつながりに思いを馳せてください・・・・・
式典が2010年ですから、それを踏まえて2011年に発表したのが上記の論文ですよね・・・・!!
ほんと、滾る・・・・

(ところで、著者はオタク文化にも精通しておられるようで、ブログの写真にもたくさんフィギュアが出てくるし、まどマギに関するご著書もあるようだ!なんか親近感!笑)

志水宗加について

志水宗加(清久)は「青龍寺以来」の最も古い家臣の一人。
もともとは六角家に仕えていたようだが、なんやかんやあって、細川藤孝の与力に。
しかし、宇治槙島城の戦いの際では義昭方で戦ったのだとか。
落城後に山城の居住地に戻った後、藤孝に呼び出されて、西岡の志水の地を領地として認められ、信長方として弟と一緒に、藤孝さんのもとで従軍。
藤孝の次男・興元の世話役だったが、天正十八年に勘気をうけ、丹後から京に戻り剃髪。
しかしその後、豊前に移った忠興(三斎)に召し出され、再び細川家に仕えることになった。
そして中津で幽斎の死を知る。

丹後ではともに能を楽しみ、幽斎さんが死の直前に小倉下向した際には和歌の会に参列している。
文武において幽斎さんとともにあった人。

論文にもこんな文章が↓

ほんのいっとき幽斎の下を離れたことはあったものの、将軍義昭の幕下から幽斎と共にあった身の感慨として、それを基盤に、幽斎追悼文は作られたものであろう。

この文章を、数百年の時を経て、ご子孫の方が書いているということに感動を覚えます。
凄いな細川家と家臣の皆様の関係性・・・・・現代に生きるオタクにも新たな萌えを提供してくれる・・・

追悼文について

今回の論文で取り上げられているのは、熊本県立図書館の上妻文庫「秉燭雑録」巻四十四におさめられている「奉追悼 泰勝院殿前兵部和謌幷序」で、全文が翻刻され、解説がのっている。

幽斎への追悼に関しては、宗加以外にも関係者の詩文が『綿考輯録』におさめられているらしい。
巻六では、智仁親王烏丸光広、木下長嘯子、佐方之昌(=佐方宗佐)の順で幽斎さんへの追悼詩文が並んでおり、この後に宗加の作が載っているとのこと。
この顔ぶれに入っているということは、幽斎さんの弟子の一人と考えられていたっぽい。

追悼文の構成は柿本人麻呂の尊挽歌に通じているらしい。(無知な私にはもちろん、それが具体的にどんな構成なのかわよくわからん・・・汗)
歌は六字の名号(なむあみだぼ)のあいうえお文になっている。(論文でも、原文に寄せているのか「南無阿弥陀佛」の文字はフォントがデカくなってる)
そして最後には↓の和歌。

よろつよの かすにとらなん なか濱の 松もおもはん ことのはの道

これは田辺城籠城の際の「いにしへも~」の歌と、新古今745歌(藤原実方)の歌を踏まえているのだそうだ。
そのほか幽斎さんが秀吉関連で詠んだ歌の一つ、<住吉の神に心もあらはれて 君か八千代を松のことの葉>も踏まえているかもとの指摘も。

武人としての幽斎、文人としての幽斎、歌人としての幽斎

佐方之昌や長嘯子の追悼文では「歌人幽斎」が前面に押し出されているのと比較すると、宗加のそれでは”信長とともに足利将軍の「塩梅の臣」として活躍した”ところを取り上げていて、それ以降の幽斎さんのことは直接は語っていない。
つまり、いわゆる「歌道の弟子」の側面が強い人たちとはちょっと違って、宗加の視点は「武人」を脱ぎ捨ててはいないということ。

とはいえ、光広や長嘯子の追悼文や哀傷文にもみられる「幽斎」と「定家」を結びつけようとする意識は、宗加にも同じようにみられる。
「よろつよの」の歌では、定家が撰じた新古今集の歌と、幽斎さんの和歌の中でも最も有名といえる「いにしへも」の歌を踏まえていることにそれが表れている。

さらに、序文の最後には「心にうつるよしなしごとを」と出てきて、どう考えても、『徒然草』推しの幽斎さんのことを意識している。
細かい演出がひかるよ宗加さん・・・・!
というか、追悼文でも取り上げられるくらい、幽斎さんの『徒然草』好きは周知のことだったんだなぁ(笑)

論文のラスト、ちょっと長いですが引用させてください。

さらには序文の最後に見える「心にうつるよしなしごとを」の一節は、『徒然草』を好んだ幽斎の姿を導きだす効果を上げており、この序文は武人幽斎の事を叙しつつ、修辞のレベルで文人幽斎の姿を浮かび上がらせ、作者が幽斎の死に臨んだ情を六字の名号を冠に和歌で抒し、最後に「ことのはの道」の万葉を宣言して歌人幽斎の「御遠行」を悼むのである。

っっっはぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・宗加ぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

ご子孫曰はく”戦友にして主君、歌の師であった幽斎”のために、宗加がいかにいろんな思いを散りばめながら子の追悼文を書いたのかを想像すると、涙が出てきそう。
この論文見つけられてよかったなぁ・・・・