細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川忠利と数学者 / 論文紹介:2本


2021年に発表された論文2本。ともに同じジャーナルに掲載されているのですが、ネタの根幹は同じで、江戸時代の有名な数学者である吉田光由が熊本に行ったのは本当でしたよ!招いたのは細川忠利でしたよ!って示す書状が見つかったとのこと。
なんだかとても忠利らしいなって感じたのでご紹介。


まずはいつもわかりやすい文章で素人の私たちに研究成果を発表してくださる、永青文庫研究センターさんのプレスリリースをご覧ください↓

江戸時代の伝説の数学者・吉田光由が細川忠利によって熊本に招かれていたことを示す一次史料を発見 | 熊本大学


こういう風に、二次資料や後世の資料でしか触れられていなくて「伝説」のように思われていた事柄が、一次資料の発見によって、きちんと焦点があった状態で「史実」と証明されるのって、すごくすごく「史学」の面白さだなって門外漢は思います。
今回のことも、熊本藩に「仕官」していたわけではないけど、藩主・忠利が「客人」として招聘したことがわかったっていうのが、とても価値あることだなぁと。
もちろん今後新たな史料が見つかって、実際に「仕官」していた時期もあるって判明する可能性もあるのはまたロマンでしょうか。

1本目の論文

で、永青文庫研究センターさんにこの話の調査を依頼された数学者の上野健爾氏の論文がこちら↓

上野健爾, 『塵劫記』と吉田光由, 日本数学会 数学通信, 25(4), 6-12, 2021

こちらより全文が読めます。


話題になっている吉田光由は、医者や土木工事や算学関係に秀でた親族が多い家系に生まれた、まさに理系のサラブレッドって感じでしょうか?
そんな彼は、ソロバンの教科書をつくるわけですが、その出来が良すぎて他の教本を駆逐してしまった(すんげぇクオリティだったんですね・・・)
●●(ピー)年前に大学受験の数Ⅱと数Bでひいひい言っていた私からすれば、算学者や数学者なんて別人種だぜ・・・

しかし数百年前であろうと、ベストセラーになればパクリとか海賊版に苦労していたって話を見ると、人間の本質って変わらないんだなぁと思いますよね(苦笑)
解答を載せないってのは荒っぽいけどすごく有効な手だとは思いましたけれどもw
論文には「塵劫記」の写真も載っていて、どんな教本だったのか雰囲気もわかります。

2本目の論文

こちらは、我らが熊本大学永青文庫研究センターの後藤典子氏の論文。後藤先生いつもありがとうございます。

後藤典子, 吉田光由の肥後下向と細川忠利, 日本数学会 数学通信, 25(4), 13-23, 2021

こちらも全面が読めちゃいます。


この論文では、実際に今回発見された「忠利が光由を招いた」ってことがわかる書状について書かれています。
南蛮の技術やワインへの傾倒もふまえて、最先端の技術を持っていたり確かな知識を持って仕事ができる人間のことをとても評価し信頼していたであろう忠利の性格を考えると、土木工事等のために信頼できる筋から光由を招いたんだろうなぁとすぐに想像できちゃいますよね。

また、後藤先生は当時の京都界隈における光由と忠利とのつながりに関しても指摘されています。
細川幽斎、藤原惺窩、角倉家、船橋家、吉田兼見林羅山、英甫永雄・・・・・・・・
まぁこのあたりの文化人はがんがん繋がっちゃうのが普通ではあるんですけど、当時の細川家にとって幽斎さんを中心とした京における人的ネットワークがいかに有益なものであったかがよくわかる例かも。

こういう面白い話が「数学者の先生」から永青文庫研究センターに持ち込まれて、資料が発見されて、私たち細川家にハマっている人間も楽しませていただけるのは、本当に贅沢だよなぁと感謝するばかり。。。
まだまだ分析されていない細川家の資史料がたぁ~~~くさんありますから、永青文庫研究センターさんには末永く、末永く頑張っていただきたい・・・!
だって私たちが死ぬまで新たな史実が発見され続けるのかと思うと、それだけで「生きよう」って思えるもん(大げさ)

分野横断的な、ある種の学際的な研究において力を発揮するのが細川家が残してきた資料だという例もいくつもあるので、本当に記録を大切にし続けてきたお家柄はすごいなぁと改めて。
そして忠利君の真面目さにも改めて乾杯したい(なんの立場)