細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

小夜の中山と忠興の和歌 / 論文紹介

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「小夜の中山」と聞くと

ゲーム刀剣乱舞から入って細川家に興味を持った方は、「小夜の中山」って聞くと幽斎さんが西行の和歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」から名付けたとされる小夜左文字を思い浮かべるのではないでしょうか?
そう、私もその一人(ただし、原作ゲームはやっていない←エ)

今回は、そんな「小夜の中山」をキーワードにした妄想話


忠興も和歌は詠んでるんすよ

ciniiとかで細川家関係の論文を漁っていたら、↓を見つけたんです。

市野千鶴子, 「細川忠興の和歌--「細川忠興江戸紀行和歌」「細川三斎御点取和歌」その他を紹介してその成立に及ぶ」, 書陵部紀要, 37, 19-40p, 1985

こちらはリポジトリなどでフリーでは閲覧できないので、図書館で複写しました。
あまりよく知られていなかった忠興の和歌に関する論文です。

タイトルに出ている「細川忠興江戸紀行和歌」は、母・光寿院(麝香)が病に臥したため、急ぎ九州から江戸へ駆けつける道中に忠興が詠んだ和歌をまとめたものとのこと。37首載っている。
悪天候や自らの眼病の故か、死に目に自分が間に合わないこともわかっていてなお、必死に江戸を目指す中で詠まれたものだけに、寂寥感の漂う歌が多いと分析されている。
・・・・・・泣けますね
忠興は身内の死に目にわりと立ち会えてないですよねぇ。妻の玉も、父の幽斎さんも・・・
忠興にとって、母はとてもとても大切な存在だったと思うのですよね。
書状にも結構よく出てきている印象。(「母なる人」みたいな文言で、忠利宛書状とかに)

で、「細川三斎御点取和歌」は後水尾上皇にご覧に入れるために清書されたものだそう。
こちらは35首載っていて、上述本の掲載歌と24首が重複している。

どちらも宇土細川家に伝わったものらしい。


そんな母が死に行く姿を思い浮かべながら詠んだであろう和歌たちの中に、「佐夜中山」にて詠まれたとされる歌が2首、載っているんですよ・・・

これ、とうらぶの細川クラスタ(特に初期細川組といえる小夜左文字と歌仙兼定を好きな方)は萌えませんか・・・!?
歌仙の元主である忠興が、小夜の名づけの元となった場所で詠んだ歌が残っている・・・・!!!
ね!?!?(誰に向かって)

小夜の中山で忠興はどんな歌を詠んだのか

掲載されている本によって、若干の違いが見られるようですがその論文に掲載されている歌はこちら↓

●1首目
細川忠興江戸紀行和歌:
『われを思ふ 人ハなくとも ふるさとの 夢をはたのむ さよの中山』
細川三斎御点取和歌:
『われをおもふ 人ハなくとも ふるさとの ゆめをそたのむ さよの中山』
細川家記「忠興十三附録乾十九」:
『あひ思ふ 人ハなくとも 古郷の 夢をたのまん さよの中山』

●2首目
細川三斎御点取和歌:
『故郷を みはてぬ ゆめのおもかけに なみたかたしく さ夜の中山」
細川家記「忠興十三附録乾十九」:
『古郷を 見はてぬ 夢のおもかけに 泪かたしく 佐夜の中山」

うぅぅぅぅぅぅ・・・・悲しい、わびしい忠興の気持ちががんがん伝わってくる歌じゃないですか・・・・・・

忠興にとって、母・麝香は「ふるさと」だったのかもなぁとこの歌を眺めていて思います。

戦国武将はわりと国替えとかで転々とするじゃないですか。
基本的に細川家(藤孝と忠興)は、京周辺に残りたい意思が強かったように思いますが、大きく加増される中で細川家は九州へ行きつく。
「場所」というのはものすごく大きなアイデンティティ形成の要素だと思いますが、この歌を詠まれた時期には、故郷であるところの京には既に父の幽斎さんも亡く、母は人質で江戸に住んでいる。
そういう中で、忠興にとって「ふるさと」といえるのは母の存在そのものだったのではないだろうか。。。

そう考えたら、もう2首目とかさ・・・・・・・・・・・・
涙ちょちょぎれるやん・・・・・・・・・

結局、案の定、忠興は母の最期を看取ることはできずに道中で死去の知らせを受け取るわけなんですよね。
一連の流れを知ると余計に、忠興の辛さが身に染みる。

で、とうらぶの細川組にも、こういうなんというか、透明な悲劇というか、微笑みあっていても背後に闇が広がっているみたいなところがあるよなって。

歌仙さんがお小夜を想って歌を詠むとき、絶対にそこには郷愁の念が詰まっているように思えてなりません。
お小夜って心理学でいうところの「安全基地=secure base」なんじゃないかなぁ、歌仙にとって。