細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

忠興の書物の裏から・・・


細川家に関係した新たな史料の発見があったというニュースが・・・!!
詳しくはこちらを↓
www3.nhk.or.jp

ネット記事なので、いつまで見られるかわかりませんが。。。

ニュースの概要

以前から裏側に何か書いてあると指摘されていた史料について、永青文庫さんと東京大学史料編纂所さんが共同で調査された結果、わかったのだそう!
概要は以下↓

  • 忠興が能に関して記し、その後巻物にしていた書物の裏側から新たな史料が見つかった
  • その中には、石田三成古田織部からの自筆書状もあった
  • その他、前田玄以からの書状、忠興自身の下書きや闘茶に関する記録など15点が裏紙として使用されていた
  • 三成の書状では、生真面目な性格がよく表れている(秀吉からもらった金をため込むのはよくないというお小言)
  • 織部の書状では、あまり残っていない若かりし頃の書状である(刀貸してほしい!大きすぎないのをヨロ!)

気になったこと諸々

まず、書状の裏紙を使用すること自体(=反故紙を利用した紙背文書)は、この時代珍しくはなかったと思います。
(一部、ネットでは「他人からのお手紙を裏紙にするなんて!」みたいな感想があったけど、別に忠興がケチだからとかではないと思うんですよ・・・)
紙の種類にもよりますが、そんなに安価なものではなかったし、厚さもそこそこあれば裏側を使わなきゃ損ですもんね。

明智光秀の前半生につながるということで昨今話題になっている「針薬方」も、反故紙を利用されて記されていますしね。

能について

発見された書状の内容に入るより前に!
そもそも、この巻物が「能」に関するものだってことに、まず一笑いしましたwww
永青文庫さんのTwitterによると、「花伝書抜書」といって、世阿弥の「風姿花伝」の一系統を忠興が書写したものだそう。
さすが忠興ww丹後時代に80番以上もの能番組でシテやってるだけはある男よwww
本当に細川家は能大好きだし、忠興はその筆頭だよなぁ!!
色々な過去の出来事や性格の違いにより、なかなか微妙な親子仲だったと思われる幽斎さんと忠興ですけど、能は共通した趣味だったと思うし、忠興がシテをして幽斎さんが太鼓叩いていたりするし、コミュニケーションツールになっていた気がするんですよね。

細川家と能。
いつだって新たな萌えを提供してくれる・・・

三成について

で、書状の内容に入りますが、まぁ、三成ですよね(苦笑)
これ、もう、本当に忠興と三成は性格合わんかっただろうなぁと思わざるを得ないwwwww
既に自分の家に入ったモノの取り扱いについて「三成にお小言ちょうだいする筋合いねーわ!」ってキレてる忠興が想像できる(←私の妄想ですよw)

実務的な能力の高い三成のこういうきめ細やかさが、ある家や人にとってはありがたいだろうし、別の家や人にとってはめちゃくちゃうざったかったでしょう。
細川家にとっては(というか忠興にとっては)確実に後者だろうなww

織部について

古田織部については、一部の説では若いころ細川藤孝に仕えていたってのがありますね。
真偽のほどは不明ですが、まぁ若いころから細川家と面識があったことは事実かな。
忠興との関係でいえば、もちろんともに利休七哲に数えられ、随一の弟子同士だったということですよね。
堺に蟄居を命ぜられた利休を、罰せられる可能性がある中で淀の船着場まで一緒に見送りに行ったことでも有名な2人。
(↑ちなみに、このエピソードは利休が松井康之に送った書状が残っていたことで後世に知られることになったもの。さすが松井康之・・・!ありがと康之・・・!!)
お茶関係で色んなやりとりも残っていて、家格は大きく違いますけど、お互いのセンスや人脈などは認め合っていたと思いますね。

で、そんな織部の若いころ(佐助と名乗っていたころ)の書状が発見されたわけですが、その内容が「刀貸してくれ」っていうのが面白いww

コレ、やっぱり細川家には「良い刀」があるってことだろうなぁ!
後陽成天皇即位式に身につけるためだったのではと分析されているのだけど、そんなめちゃくちゃ公的儀式に耐えうる刀を、織部自身は持っていなかったってことかな。
実用的なものではなく、ある意味お飾り的な刀が必要なんだろう。
で、「忠興ならぜってーいっぱい持ってる!」ってことですよね。
しかも「大きすぎるのはやめて」とかリクエストしているってことは、これ以前にもちょこちょこ借りてたことがあったように感じます。
(刀の貸し借りが、この時代に頻繁にあったのかは不明ですが・・・)

うーん、面白いなぁ・・・・!!!!
織部(佐助)からの書状は3点見つかったそうだけど、忠興との気安い関係が透けて見えますねぇ!

焼肉トリオ

で、で、で!!!
見出しにはなっていませんが、記事の最後の方にちょろっと出てくる内容に興奮しました・・・!!!!!

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。

焼肉トリオ・・・・!!!!!!!!!
連れ立ってお寺に行く焼肉トリオ・・・・・・!!!!!!!!!!!!
うわぁぁぁ!!!!!可愛いトリオ・・・・!!!!!!

この蒲生氏郷高山右近細川忠興の3名については、小田原の陣中で牛を一緒に食べたことで有名!
当時は牛を食べることが珍しかったんだそうな~!

がもうじさんと忠興とは、利休七哲関係でちょこちょこエピソードがあったりしますね。
アニキにツンデレな感じの忠興が目に浮かびます(妄想です)

右近の有名な「日本訣別の書状」は、忠興に宛てて送られたもので、両者の親密な関係が伺えます。
一説には、明智玉がキリスト教に入信するきっかけは、右近だったとも言われています。

そんな仲良しトリオについて触れている忠興の下書き・・・・!!
400年以上たっても、新たな話題を提供してくれる細川家サイコーかな!!!
いつも素敵な調査をありがとうございます!永青文庫さん!東京大学史料編纂所さん!!
これからも期待しています!!!(強欲)