徒然草ブームの火付け役は幽斎さん?
慶長年間に吉田兼好「徒然草」は一大ブームになったそうな・・・
そのときに徒然草がどのように扱われたのかを論じた論文がこちら↓
↓ここから全文読めます。
Prefectural University of Kumamoto: 慶長文壇と徒然草
現代を生きる我々幽斎オタクの同志・松永貞徳の徒然草注釈書「慰草」に、源氏物語が100年以上も埋もれていたのと同様に「徒然草も天正の頃までは知っている人は稀だったが、慶長の時分より世に出てきた」って書かれているようだ。
さて、その慶長時代の前段に徒然草に非常に興味を持つ御方がいた。
そう、我らがチート大名の細川幽斎ですよ。
烏丸光広「耳底記」でも「つれづれ、おもしろきもの也」と幽斎さんが言っていたと残っていて、自分自身でも楽しんでいたし、人にも薦めていたらしい。
幽斎さんの三男・細川幸隆も父の影響か、徒然草を書写していたようで、その奥書には中院通勝に辞句や出典について問い合わせていたことが記されている。
まぁ、幽斎さんがどれくらい”学問的なアプローチ”をしていたかはわからないらしいけれど、中院通勝や烏丸光広といった高弟たちが徒然草を研究していたことは残された史料などでわかっている。
貞徳くんも徒然草については中院通勝に講釈をしてもらっていたみたい。
「耳底記」での記述も鑑みれば、どう考えたって彼らには幽斎さんの影響があるよねって話ですね。
その他、論文では慶長時代の徒然草への関心は、歌学系よりもむしろ、藤原惺窩や林羅山、三宅亡羊、片倉素庵などの儒学・医学系の人=漢学系の人たちの方が高かったらしいことも触れられている。
曲直瀬道三の名前もちらっと出てきたり。
徒然草の内容に関わる論文の芯をなす分析部分は割愛しますが、興味ある方は是非原論文を読んでみてくださいね~
ではいつものように、今回のテンション上がる一文はこちら↓
和歌については無論、狂歌・俳諧の好みに至るまで、幽斎がその門下や周辺の文人に与えた影響力は多大なものであったと考えられるから、「慶長の時分」における徒然草流行の火付け役の一人は、間違いなくこの幽斎であったろう
研究者の皆様のこういう文章にいちいち興奮させてもらっている私です。
ありがてぇありがてぇ・・・
作られた”吉田一族”としての兼好法師?
もう一本、同じく川平氏による論文。
こちらは唯一神道の吉田家(そう、幽斎さんの従弟の吉田兼見さん家)と徒然草のことを論じている。
川平敏文, 吉田家と徒然草:―近世初頭における徒然草受容史の一齣―, 日本近世文学会 近世文藝, 110, 39-46, 2019
こっちも全文読めます↓
〔シンポジウム記録 第一部〕吉田家と徒然草
徒然草の著者は有名ですね、兼好法師。
一般的に「吉田兼好」として知られ、唯一神道の吉田家=卜部家に名を連ねる人物だとされてきた。
しかし近年、小川剛生氏「兼好法師 徒然草に記されなかった真実」という新書で兼好法師と吉田家はまったく無関係であるという衝撃的な指摘をされたらしい。
なんでも室町中期の当主である吉田兼倶が、低迷する家格の恢復を目指して兼好を利用したって感じのようだ。
そしてこの論文の二章のタイトルはそのものずばり「細川幽斎と吉田家」です・・・!
なんと心躍る章のタイトルだろうw
ちなみに娘婿の木下延俊(忠興にとっては義弟で仲良しだった)にも徒然草薦めていたらしいです、幽斎さん。
とウキウキしていたら、この章にはわりと衝撃的(?)な一文が・・・
ところで、これまでほとんど注意されてこなかった問題であるが、この幽斎という人物は、吉田家と大変深い関係にある。
え!?!?!?!?!?
思いッくそ吉田家と関係深いでしょ幽斎さん!?!?!?!?
文学史の中ではそんなに知られてない事実なの!?!?!?!?
そういえば、確かに吉田兼見に関する別の論文でも、幽斎さんと兼見が「従兄弟」であるってことが全く触れられず、ただただ「文化的な側面での繋がりが強い親友だよ~」「お互いの娘と息子を結婚させて親戚になったよ~」みたいな論調でまとめられてて、衝撃を受けたことがあったな・・・・・・・・
えーーーー・・・・・・
そんなに知られてないことなのか・・・・・
この論文が発表されたのは2019年なので、めちゃくちゃ最近じゃないですか・・・・・
なんか論文の内容とは全く関係ないところで、ものすげーショックを受けましたよ・・・・
話しを戻して、つまり幽斎さんの徒然草受容の姿勢には吉田家の存在がかなり影響しているということらしい。
まぁね、幽斎さんは頻繁に吉田家を訪問しているし、その際にいろんな書物やらなんやらも見せてもらったり書写したりしてたみたいだから、全く違和感のない説ですね。
あともう一章、「藤原惺窩と吉田家」についても論じられている。
惺窩も徒然草受容の歴史では見逃せない人物なのだが、兼見の猶子であったらしく、吉田家と縁が深いってことを中心に指摘されている。
作られた「吉田一族としての兼好法師」ではあるけれど、慶長の前後の時代において、徒然草研究の”プラットフォーム”になっていたのは吉田家、という論文でした。