細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

忠興の書物の裏から・・・

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細川家に関係した新たな史料の発見があったというニュースが・・・!!
詳しくはこちらを↓
www3.nhk.or.jp

ネット記事なので、いつまで見られるかわかりませんが。。。

ニュースの概要

以前から裏側に何か書いてあると指摘されていた史料について、永青文庫さんと東京大学史料編纂所さんが共同で調査された結果、わかったのだそう!
概要は以下↓

  • 忠興が能に関して記し、その後巻物にしていた書物の裏側から新たな史料が見つかった
  • その中には、石田三成古田織部からの自筆書状もあった
  • その他、前田玄以からの書状、忠興自身の下書きや闘茶に関する記録など15点が裏紙として使用されていた
  • 三成の書状では、生真面目な性格がよく表れている(秀吉からもらった金をため込むのはよくないというお小言)
  • 織部の書状では、あまり残っていない若かりし頃の書状である(刀貸してほしい!大きすぎないのをヨロ!)

気になったこと諸々

まず、書状の裏紙を使用すること自体(=反故紙を利用した紙背文書)は、この時代珍しくはなかったと思います。
(一部、ネットでは「他人からのお手紙を裏紙にするなんて!」みたいな感想があったけど、別に忠興がケチだからとかではないと思うんですよ・・・)
紙の種類にもよりますが、そんなに安価なものではなかったし、厚さもそこそこあれば裏側を使わなきゃ損ですもんね。

明智光秀の前半生につながるということで昨今話題になっている「針薬方」も、反故紙を利用されて記されていますしね。

能について

発見された書状の内容に入るより前に!
そもそも、この巻物が「能」に関するものだってことに、まず一笑いしましたwww
永青文庫さんのTwitterによると、「花伝書抜書」といって、世阿弥の「風姿花伝」の一系統を忠興が書写したものだそう。
さすが忠興ww丹後時代に80番以上もの能番組でシテやってるだけはある男よwww
本当に細川家は能大好きだし、忠興はその筆頭だよなぁ!!
色々な過去の出来事や性格の違いにより、なかなか微妙な親子仲だったと思われる幽斎さんと忠興ですけど、能は共通した趣味だったと思うし、忠興がシテをして幽斎さんが太鼓叩いていたりするし、コミュニケーションツールになっていた気がするんですよね。

細川家と能。
いつだって新たな萌えを提供してくれる・・・

三成について

で、書状の内容に入りますが、まぁ、三成ですよね(苦笑)
これ、もう、本当に忠興と三成は性格合わんかっただろうなぁと思わざるを得ないwwwww
既に自分の家に入ったモノの取り扱いについて「三成にお小言ちょうだいする筋合いねーわ!」ってキレてる忠興が想像できる(←私の妄想ですよw)

実務的な能力の高い三成のこういうきめ細やかさが、ある家や人にとってはありがたいだろうし、別の家や人にとってはめちゃくちゃうざったかったでしょう。
細川家にとっては(というか忠興にとっては)確実に後者だろうなww

織部について

古田織部については、一部の説では若いころ細川藤孝に仕えていたってのがありますね。
真偽のほどは不明ですが、まぁ若いころから細川家と面識があったことは事実かな。
忠興との関係でいえば、もちろんともに利休七哲に数えられ、随一の弟子同士だったということですよね。
堺に蟄居を命ぜられた利休を、罰せられる可能性がある中で淀の船着場まで一緒に見送りに行ったことでも有名な2人。
(↑ちなみに、このエピソードは利休が松井康之に送った書状が残っていたことで後世に知られることになったもの。さすが松井康之・・・!ありがと康之・・・!!)
お茶関係で色んなやりとりも残っていて、家格は大きく違いますけど、お互いのセンスや人脈などは認め合っていたと思いますね。

で、そんな織部の若いころ(佐助と名乗っていたころ)の書状が発見されたわけですが、その内容が「刀貸してくれ」っていうのが面白いww

コレ、やっぱり細川家には「良い刀」があるってことだろうなぁ!
後陽成天皇即位式に身につけるためだったのではと分析されているのだけど、そんなめちゃくちゃ公的儀式に耐えうる刀を、織部自身は持っていなかったってことかな。
実用的なものではなく、ある意味お飾り的な刀が必要なんだろう。
で、「忠興ならぜってーいっぱい持ってる!」ってことですよね。
しかも「大きすぎるのはやめて」とかリクエストしているってことは、これ以前にもちょこちょこ借りてたことがあったように感じます。
(刀の貸し借りが、この時代に頻繁にあったのかは不明ですが・・・)

うーん、面白いなぁ・・・・!!!!
織部(佐助)からの書状は3点見つかったそうだけど、忠興との気安い関係が透けて見えますねぇ!

焼肉トリオ

で、で、で!!!
見出しにはなっていませんが、記事の最後の方にちょろっと出てくる内容に興奮しました・・・!!!!!

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。

焼肉トリオ・・・・!!!!!!!!!
連れ立ってお寺に行く焼肉トリオ・・・・・・!!!!!!!!!!!!
うわぁぁぁ!!!!!可愛いトリオ・・・・!!!!!!

この蒲生氏郷高山右近細川忠興の3名については、小田原の陣中で牛を一緒に食べたことで有名!
当時は牛を食べることが珍しかったんだそうな~!

がもうじさんと忠興とは、利休七哲関係でちょこちょこエピソードがあったりしますね。
アニキにツンデレな感じの忠興が目に浮かびます(妄想です)

右近の有名な「日本訣別の書状」は、忠興に宛てて送られたもので、両者の親密な関係が伺えます。
一説には、明智玉がキリスト教に入信するきっかけは、右近だったとも言われています。

そんな仲良しトリオについて触れている忠興の下書き・・・・!!
400年以上たっても、新たな話題を提供してくれる細川家サイコーかな!!!
いつも素敵な調査をありがとうございます!永青文庫さん!東京大学史料編纂所さん!!
これからも期待しています!!!(強欲)

徒然草扇面:幽斎麝香夫妻の尊い案件 / 論文紹介

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以前、川平氏徒然草に関する論文を2本紹介した。こちらを参照↓
hohshoy.hatenablog.com

今回はそんな川平氏の松井家と徒然草に関する論文をご紹介。

川平敏文, 肥後八代城主松井家と徒然草:近世極初期の扇面と屏風絵, 国文研究, 55, 1-18, 2010

こちら↓から読めます。
Prefectural University of Kumamoto: 肥後八代城主松井家と徒然草:近世極初期の扇面と屏風絵


徒然草は、慶長時代にブームとなる直前、幽斎さんがその面白さにハマって周囲の人に盛んに薦めていたことが、これまでの論文でも何度も指摘されていた。
今回は、そんな幽斎さんの懐刀ともいえる松井康之を初代とする近世松井家に伝わっている徒然草関係の資料に関する論文。
おそらく幽斎さんを通して、松井家にも徒然草のブームは来てたってことですな。

松井家に伝わっている徒然草関係の資料

八代市立博物館未来の森ミュージアムに寄託されている松井文庫所蔵品の中には次の4点の徒然草関係の資料が現存している。

この論文では後者2点について、主に論じられている。

徳川家康筆と伝わっている扇面については、秀次事件の時に主君・忠興を助けるために奔走して家康にお金を借りに行った康之が大汗をかいていたところ、この扇子を使って涼みなさいって下賜したものらしい。
家康の直筆で「花はさかりに」の段が書いてあるそうな・・・(直筆かどうかの真贋は不明)

家康もけっこう徒然草に興味があった人だそうで、林羅山の注釈書にエピソードが載っているらしい。

屏風の方は、徒然草絵の中でももしかしたら「現存最古の遺品」かもと指摘されているものとのこと。
ただ残念ながらあまり状態が良くないらしい・・・
論文にはちょろっと写真の載っています。

実は論文の内容とは関係のない本題

この論文の一番萌えたところは、序論のところでした(←エ)
熊本県立美術館に寄託されている永青文庫の所蔵品には、忠興筆の「徒然草」書写本と「徒然草扇面」があると紹介されていた。

この「徒然草扇面」ですが・・・
こちら、幽斎さんの正室・麝香(光寿院)の筆らしい・・・・!!!!!

しかも、しかも、抄写されているのは「徒然草・第二十六段」の本文らしいのだが、コレ、コレ・・・・

烏丸光広「耳底記」で幽斎さんが「古歌古事などをもかすませて、二重も三重も上をかきたる」ということの例として挙げていた章段らしいのですよぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!


つまり、つまり、どう考えたって、幽斎さんが光広にしたのと同じ話を麝香さんにしてるってことだし、それを覚えていた麝香さんが扇面にわざわざ抄写したってことでしょぉぉぉぉぉぉぉぉ(号泣)


っはぁぁぁぁぁぁ
細川夫妻尊い・・・・・・・・・・・・

尊すぎたので、アイキャッチ画像にもしてみました。

こういうものが、400年を経てきちんとお家の宝として伝わっているというのが細川家の素晴らしいところだと思うのですよ。
幽斎さんは近世細川家にとって、やっぱりちょっと特別な存在ですよね。
武家ではあるけれども文芸的な文脈での存在感が大きいし、宮家とのつながりさえあるのですから、子孫が「初代すげぇ」ってなってもなんらおかしくない。

そんな幽斎麝香夫妻の、ある意味で仲良しの証としての扇が、脈々と受け継がれてきたんだと考えると、もう、泣けるし萌えるね・・・・
松井家の話だったはずなのに、ごめんな松井・・・・・松井のことも大好きなんだが、いかんせんこの夫妻の尊さには負ける・・・

細川幽斎と碁 / 論文紹介

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幽斎さんはけっこう碁も好きだったらしい。
そんな感じで論文を1本ご紹介。

増田忠彦, 資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち), 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要, 15, 307-361, 2013

気になるなぁって方は是非、こちらからどうぞ

奈良時代安土桃山時代までの、資料に出てくる碁打ちのことを羅列している内容です。
もちろん(もちろん?)幽斎さん関係以外はきちんと読んでいないので、割愛させていただき・・・

安土桃山時代の碁打

という章の部分に、ちょこちょこちょこちょこ幽斎さんの名が現れます。
ホントちょこちょこ出てくるんですよ・・・ww
自分で碁会を催してもいるし、他所へも出かけているって感じでしょうか?

もちろん幽斎さんだけでなく、吉田兼右や兼見がぽろぽろ出てきたり。
というか「兼見卿記」の内容がばんばん出てくる(笑)
兼見と同様にこの時代の研究ではよく重宝されている「言経卿記」もたくさん取り上げられてます。その記事の中には「南禅寺三長老」「建仁寺雄長老」ってのも見えるので、松井康之叔父の玄圃霊三や幽斎甥の英甫永雄もちょこっと出演している。
それから、兼見の弟である梵舜の日記「舜旧記」の記事も出てきます。
あ、この論文ではきちんと「幽斎と兼見は従兄弟」と書いてくれています!よかった!

論文中でもちょいちょい触れられていますが、慶長の最初らへんに吉田神社南禅寺などでの碁会には家康も出ていて、そこに幽斎さんや兼見なども同座している。
吉田神社南禅寺に細川家界隈の血縁者も多かったことを鑑みると、やはり関ケ原に至るまでの間に、細川家は徳川方(東軍)につくっていうのは当然の流れだったのかしら。

武将の囲碁好きは多くいるが、腕前は幽斎が頭抜けていたのではないか。

はい、いつものとおりに論文読んでいて興奮した一文も引用!
幽斎さん、あなた・・・碁打ちでも頭抜けていたの・・・なんなのホント・・・・好き・・・・

細川忠興の身長 / 論文紹介

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残されている衣料関係の史料から、忠興・三斎のことを考察しようっていう論文をご紹介。

加藤秀幸, 細川三斉忠興の衣料等よりの考察, 東京大学史料編纂所報, 21, 1-6, 1986

こちらから全文読めます。

笑わせてもらったのは、"繊細な感覚"と"癇癪"を持つ三斎が、袖の裄がちょびっと違ったからということで忠利からの重陽の祝儀の小袖を返却してることwwwwww
さすが忠興wwwwwこれぞ忠興って感じじゃないですか?wwwwww
返ってきた小袖を見て苦笑いしている忠利の顔さえ浮かぶようだよwwwwwww

また、正確には断定できないけれども、おおよその身長も検討していてる。
以下、論文で触れられている身長を引用。

家康より秀忠の方がけっこう大きかったんですねぇ!ちょっと意外でした。
忠興はなんかわかる。特別大きくも小さくないところが合ってる気がする。

もちろん色んな説があるんでしょうけど、ネットなんかで検索するとだいたい戦国時代の平均身長は家康くらいのようですね。
そうすると、秀忠はけっこう大きい方ですよねぇ。家光はどうだったのかなぁ?

忠興は平均よりちょっと大きいくらい。うん、すごくソレっぽいww
残っている肖像画を見る限り、忠利や光尚は忠興よりは少し小柄に見えます。
玉が小柄だったのかしら?

こういう色んな方向から研究をしてくれていて、そのおこぼれに預かって楽しませてもらってありがたいですね・・・!

細川幽斎の死に場所/没地

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すごいタイトル(苦笑)

細川幽斎は1610年、77歳で亡くなります。
あの田辺城籠城戦から10年後ですね。

最期はけっこう老衰というか、耄碌していたらしいことが、八条宮智仁親王の書き残した史料で伝えられています。

そんな幽斎さんが亡くなった場所は、晩年住んでいた三条車屋の屋敷。

なんですけど、「三条車屋」って検索すると「中京区車屋町」とか「北車屋町」とか「南車屋町」とかいっぱい出てくる・・・(汗)
京都に詳しくない私の検索能力と土地勘では、どこに屋敷があったのかよくわからなかったんですよね。

でも続群書類従 第三十三輯上 雑部に収められている「貞徳翁之記」という史料の中に、通りの名前から記載されている部分を見つけた!
そう!我らが幽斎オタクの同志・貞徳くんが残してくれてた!!笑
ありがとうな貞徳くん!!!!笑
ちなみにばっちり自分の邸宅の場所まで書いてくれててさすがだぜ!!笑

詳細な場所

「貞徳翁之記」には↓のように記載がありました。

そのことくかの御庵室も都へうつされて。ほとちかくなりけれは日々に参かよふこそ。住吉の御はからひとありかたく覚へ侍れ。みつからの宅は三条衣のたな。かの御館は姉小路の通。烏丸と東洞院の間。西は場町。北は車屋町と当時申なり。

つまり、今の京都で言うと阪急烏丸駅・地下鉄烏丸御池駅の近くってことですね。

場町というのは、今の住所で言うと「中京区場之町」でしょうね。
姉小路通沿いで、烏丸通東洞院通の間で、西は場之町で、北は車屋町・・・
このあたりでしょうか!?

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幽斎さんの亡くなった三条車屋屋敷はここら辺にあった?

ところで貞徳くんの屋敷とはというと・・・三条衣棚ってとこなので・・・・

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貞徳くんの住居はこのあたり?

ちっかwwwwwww
ヨユーで徒歩圏内ですよね、コレwwwww

上で引用した文章でも、「近くに引っ越してきてくださったので日参したぜ!住吉の神様=歌道の神様の御計らいありがてぇぇ!!」って感じでしょ?ww
ホント貞徳くん信頼できる崇拝っぷりww

場所的に訪ねやすそうですし、けっこうその他の弟子やら知り合いやらいっぱい見舞いに来たんじゃないかって気がしますよね。

忠興はこのとき小倉にいたわけですが、危篤の知らせを受けて上京しようとしていました。
ですが、残念ながら死に目には合えずに父・幽斎は亡くなってしまいました。
忠興はこの7年後、母・麝香(光寿院)が江戸で亡くなったときにも、死に目には会えてない。
幼少期の放置期間(という言い方はアレですが)を含めて、なんとなくかみ合わない両親と長男だったなぁと、しんみりしちゃう。

吉田山の随神庵

ところで、忠興が豊前に国替えとなる時分、幽斎さんは、従弟の吉田兼見がいる吉田神社の近く、吉田山に「随神庵」を建てていたようです。
こちらは具体的な位置よくわからない・・・
吉田神社には「幽斎桜」というのがあって、見に行ったことがあります。(桜の季節ではなかったので、私が見たときは只の木でした←)
「兼見卿記」によると、幽斎さんはガンガン、それはもうガンガン、兼見のところへ訪れているので、近くに庵を建てても全然不思議じゃないですね。

「なんでも鑑定団」にもよく出演される増田孝氏が所蔵されている幽斎さん自筆の書状に「吉田に草庵を建てました」と大和宗恕宛てに伝えているものがあるのです。
ちょっと年代まではわからないのですけども・・・
写真全てを載せるのは控えて、幽斎さんの花押と解説のところだけ切り取ります。
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↑の写真は、2020年に開催されたこちらの展示会の外の掲示板に貼られていた雑誌記事。
左端の増田さんの解説がまた最高です。引用します。

幽斎の書の線は沈着、行は整然として中心が曲がることがない。その終始一貫した書風に、名門の歌学者らしい品位が漂っている。


うっひょ〜〜〜〜〜!!!!増田先生ありがとう!!!!!!


宛先の大和宗恕というのは、大和晴完という足利幕臣のことのようですね。

つまり、昔の同僚ってことっすなぁ。
この方は106歳で亡くなったらしいのですけど・・・マジで?笑


幽斎さんは、足利幕臣時代の同僚を秀吉や家康にリクルートしていたりしたんですよね。
曾我尚祐とかがいい例でしょうか。
こういうところ、すごぉぉぉく幽斎さんらしいなって思います。
優秀な事務方を望む時の権力者と、新しい職場を探す昔の同僚を、つなぐ役割を担っていたんだろうなぁ。

って、いつも通り話がそれていく・・・

幽斎さんの死に場所/没地

強引に話を戻しますが、前述の「貞徳翁之記」によると、幽斎さんもともとは「吉田の御庵室」つまり随神庵にいたようです。
しかし70を過ぎて老も進んできたためか、都に居を移したこと、それによって貞徳くん家と近くになったと書いてある。
つまり、宮津田辺城→吉田山随神庵→三条車屋、という流れで引っ越ししているのかな?

幽斎さんの亡くなった場所は、今の京都でいうとめちゃくちゃ都会ど真ん中。
京都に観光に訪れた時にも行きやすい場所ではあるので、細川オタクの方は是非足を運んでみてください~!
新風館」というシャレオツな複合施設もものすごく近いので~(なお、私は行ったことないw)

京都国立博物館 特別展「京の国宝」に行ってきた

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2021年8月某日、重い腰をあげて、やっとこ京都国立博物館で開催されている「(みやこ)の国宝」展に行ってきました。
自分のための備忘録。

そもそも何故行きたかったのか

別に「国宝いっぱい観に行きたい〜!」とか思っていたわけではなく(エ)
本展を紹介しているニコニコ美術館を視聴して、細川幽斎ゆかりの品が出展されていることを知ってしまったからである。
気になる方は、以下よりご覧ください。幽斎さんのくだりは2:10:20頃でございます!
live.nicovideo.jp

で、その品というのが・・・

龍谷大学所蔵の類従古集

京都は深草にある龍谷大学が所蔵している「類従古集」。
類従古集とは、平安時代後期に藤原敦隆が万葉集に収録されている歌を形式と内容により分類したものだそう。
今回出展されていたのは、ほぼ成立と同時代に書かれた唯一の古写本とのこと。
それだけでも凄いのですが、その伝来も凄い・・・

そう、細川幽斎が所持していたわけですよ・・・・・!!!!!

いやぁ、さすがに和歌関係では出張ってくるよねぇ幽斎さん(褒めてる)
幽斎さんだけでなく、烏丸光広も所持していたそう。両者の関係を考えればもちろん、幽斎さんから譲られたんでしょうね。

「幽斎さんが触ったんだよなぁぁぁぁぁぁ」って心の中で叫びながら舐めるように観ました(hentai)
ちょうど展示されていたページには「雪」の題材で、柿本人麻呂の和歌が書かれていた(と思う)。
古今伝授の折には人麻呂像を掛けていたと言いますから、幽斎さんとの所縁を考えてのセレクトだったのかしらと深読みした細川家オタクは私です。

まぁ、幽斎さんや光広が所持していたってのは、実際の展示会場の説明文には一切触れられていなかったんですけどね!(悲しい)

その他気になったもの

お目当ては↑だけだったんですが(コラ)
事前に興味なくても展示品は全部観る派なので、ちゃんと全て観ましたよ〜。さくさく観たつもりでしたが、2時間以上かかってた。
後期展示だったので、かの有名な建仁寺蔵の俵屋宗達風神雷神図屏風」もありました。金箔の升目もわかるくらい、近くで観れます。

国宝が指定される際の分類に合わせて本当に多種多様なものが展示されていましたが、個人的に気になったのは次の2つ!


前者はとにかく写実性というか、ものすごくバランスの取れた老人で。
彫刻のこととか全く詳しくないですし、二十八部衆がなんなのかもよく知らない(無知)のですが、この像は素直に「すげぇ」と思いました。

うっすら開いた口から見える歯とか、胸の骨の浮き具合とかがなんかリアル。
手とか足とかの血管の筋とかまできっちり彫ってるんですよ・・・
だけど、腰に巻いてる犬?狐?の毛皮の顔がけっこうキュート。婆藪仙人の顔はグロテスクなまでに写実的なのと比べるとホッとしたw

館内に設置されていた図録をパラっと読んでみると、髭の部分にはかつて実際に毛が縫い付けられていた痕跡があるのだとか・・・
マジか・・・・もっとリアルだったわけか・・・・

あ、展示されていた像は「婆藪仙」のWikipediaページの写真と同じものです。
あんまり綺麗な写真じゃないですけど、実物はもっとこう、静かな迫力がありました。
Wikiによると、婆藪仙人とは吉祥天の兄ともされるているそうな。へぇ。


後者については、めちゃくちゃくだらない理由で目をとめた。

そう、絵巻に出てくる群衆の1人の着物に「九曜紋」が描かれていたのだ!笑

後ろ向きの人物だったのだが、着物の両上腕と背中部分に白ではっきりくっきりとした九曜紋が!!
いやぁ、そのおっちゃんだけ凝視したよねwww

帰宅後に調べたところによると、筆者の岩佐又兵衛荒木村重の子。
村重謀反の際には、一族郎党ががんがん殺されてしまいましたが、又兵衛はまだ幼かったので乳母のおかげで生き延びたそう。

戦国〜江戸時代の人で、主に京都で活躍した絵師ですから、ね?
その時代の九曜紋といえば、ね?
(え?もちろん伊達家じゃないよ?????)

もしかして細川家の人物がモチーフにされたのかもしれない!?!?!?

と、こんな風に予定していないところで細川家に関わる(かもしれない)ことに出会うと楽しいですよね。

徒然草と細川幽斎 / 論文紹介2本

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徒然草ブームの火付け役は幽斎さん?

慶長年間に吉田兼好徒然草」は一大ブームになったそうな・・・
そのときに徒然草がどのように扱われたのかを論じた論文がこちら↓

川平敏文, 慶長文壇と徒然草, 熊本女子大学国文談話会 国文研究, 47, 14-38, 2002

↓ここから全文読めます。
Prefectural University of Kumamoto: 慶長文壇と徒然草


現代を生きる我々幽斎オタクの同志・松永貞徳の徒然草注釈書「慰草」に、源氏物語が100年以上も埋もれていたのと同様に「徒然草天正の頃までは知っている人は稀だったが、慶長の時分より世に出てきた」って書かれているようだ。


さて、その慶長時代の前段に徒然草に非常に興味を持つ御方がいた
そう、我らがチート大名の細川幽斎ですよ。


烏丸光広「耳底記」でも「つれづれ、おもしろきもの也」と幽斎さんが言っていたと残っていて、自分自身でも楽しんでいたし、人にも薦めていたらしい。
幽斎さんの三男・細川幸隆も父の影響か、徒然草を書写していたようで、その奥書には中院通勝に辞句や出典について問い合わせていたことが記されている。
まぁ、幽斎さんがどれくらい”学問的なアプローチ”をしていたかはわからないらしいけれど、中院通勝や烏丸光広といった高弟たちが徒然草を研究していたことは残された史料などでわかっている。
貞徳くんも徒然草については中院通勝に講釈をしてもらっていたみたい。
「耳底記」での記述も鑑みれば、どう考えたって彼らには幽斎さんの影響があるよねって話ですね。

その他、論文では慶長時代の徒然草への関心は、歌学系よりもむしろ、藤原惺窩や林羅山、三宅亡羊、片倉素庵などの儒学・医学系の人=漢学系の人たちの方が高かったらしいことも触れられている。
曲直瀬道三の名前もちらっと出てきたり。
徒然草の内容に関わる論文の芯をなす分析部分は割愛しますが、興味ある方は是非原論文を読んでみてくださいね~


ではいつものように、今回のテンション上がる一文はこちら↓

和歌については無論、狂歌俳諧の好みに至るまで、幽斎がその門下や周辺の文人に与えた影響力は多大なものであったと考えられるから、「慶長の時分」における徒然草流行の火付け役の一人は、間違いなくこの幽斎であったろう

研究者の皆様のこういう文章にいちいち興奮させてもらっている私です。
ありがてぇありがてぇ・・・

作られた”吉田一族”としての兼好法師

もう一本、同じく川平氏による論文。
こちらは唯一神道の吉田家(そう、幽斎さんの従弟の吉田兼見さん家)と徒然草のことを論じている。

川平敏文, 吉田家と徒然草:―近世初頭における徒然草受容史の一齣―, 日本近世文学会 近世文藝, 110, 39-46, 2019

こっちも全文読めます↓
〔シンポジウム記録 第一部〕吉田家と徒然草


徒然草の著者は有名ですね、兼好法師
一般的に「吉田兼好」として知られ、唯一神道の吉田家=卜部家に名を連ねる人物だとされてきた。
しかし近年、小川剛生氏「兼好法師 徒然草に記されなかった真実」という新書で兼好法師と吉田家はまったく無関係であるという衝撃的な指摘をされたらしい。
なんでも室町中期の当主である吉田兼倶が、低迷する家格の恢復を目指して兼好を利用したって感じのようだ。

そしてこの論文の二章のタイトルはそのものずばり「細川幽斎と吉田家」です・・・!
なんと心躍る章のタイトルだろうw
ちなみに娘婿の木下延俊(忠興にとっては義弟で仲良しだった)にも徒然草薦めていたらしいです、幽斎さん。

とウキウキしていたら、この章にはわりと衝撃的(?)な一文が・・・

ところで、これまでほとんど注意されてこなかった問題であるが、この幽斎という人物は、吉田家と大変深い関係にある。

え!?!?!?!?!?
思いッくそ吉田家と関係深いでしょ幽斎さん!?!?!?!?
文学史の中ではそんなに知られてない事実なの!?!?!?!?

そういえば、確かに吉田兼見に関する別の論文でも、幽斎さんと兼見が「従兄弟」であるってことが全く触れられず、ただただ「文化的な側面での繋がりが強い親友だよ~」「お互いの娘と息子を結婚させて親戚になったよ~」みたいな論調でまとめられてて、衝撃を受けたことがあったな・・・・・・・・

えーーーー・・・・・・
そんなに知られてないことなのか・・・・・
この論文が発表されたのは2019年なので、めちゃくちゃ最近じゃないですか・・・・・
なんか論文の内容とは全く関係ないところで、ものすげーショックを受けましたよ・・・・


話しを戻して、つまり幽斎さんの徒然草受容の姿勢には吉田家の存在がかなり影響しているということらしい。
まぁね、幽斎さんは頻繁に吉田家を訪問しているし、その際にいろんな書物やらなんやらも見せてもらったり書写したりしてたみたいだから、全く違和感のない説ですね。


あともう一章、「藤原惺窩と吉田家」についても論じられている。
惺窩も徒然草受容の歴史では見逃せない人物なのだが、兼見の猶子であったらしく、吉田家と縁が深いってことを中心に指摘されている。


作られた「吉田一族としての兼好法師」ではあるけれど、慶長の前後の時代において、徒然草研究の”プラットフォーム”になっていたのは吉田家、という論文でした。

幽斎さんの影響力

徒然草は、長男・忠興も三男・幸隆も書写本が残っています。

さらに中院通勝、烏丸光広、松永貞徳・・・・
幽斎さんの高弟といえるメンバーは、マジで幽斎さんの影響をバンバン受けてるよなって徒然草からも思い知らされますね。
もちろん、単に幽斎さんから与えるばかりの関係性ではなかったと思うので、お互いに刺激し合いながら文芸活動をしていたのだと思うけれど。
(特に中院通勝とは、師↔︎弟子という関係性よりは、もう一歩か二歩か、対等に近い関係性だったんじゃないかな)

また、徒然草を通して、幽斎さんと吉田家との関係性の深さも改めて教えてもらえるんですよね。
そんな徒然草の楽しみ方でした。

徒然草色紙貼交屏風

幽斎さんは、こんな↓ものも作っている。

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細川幽斎展」図録より
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細川幽斎展」図録より

「没後400年・古今伝授の間修復記念 細川幽斎展」の図録より拝借。
徒然草の一説を色紙に自筆で書いたものを、金屏風に貼り付けている豪華仕様・・・
こちらはかつて熊本市北岡の細川邸の七間御蔵に保管されていたのだそう。

2021年春に熊本県立美術館で開催されていた会館45周年記念の展覧会でも出品されていました。
とっても豪華かつ幽斎さんの文芸関係への熱量が感じられる品。
いいですよねぇぇぇ。