細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川藤孝の束帯姿の肖像画

f:id:nashoy:20220319114210p:plain
最近中古で手に入れた「季刊永青文庫 No.73」に、幽斎さんの肖像画についてまとめられた論考がありまして。

三宅秀和(永青文庫学芸員), 細川幽斎肖像画, 季刊永青文庫, 73, 14-17, 2010

で、基本的に幽斎さんのほとんどの肖像画南禅寺が所蔵している画を基本として”歌人”としの側面を全面に押し出した姿で描かれてますよね。

でも実は、永青文庫にはほかにも違った姿の幽斎さんが残っているそうで・・・!
知 ら ん か っ た !!!!!


冊子を撮影した粗い画像で恐縮ですが、こんな束帯姿の肖像画もあるらしいんすよ!!!!!!
f:id:nashoy:20220319114244j:plain

えーーーーー!初めて見たぁぁぁぁ!!!!!!
こんな肖像画あったんですね!?!?

どうでしょう、剃髪後の有名な姿と比べて・・・・?
ちょっと状態がそこまで良くなさそう+印刷物+それをスマホで撮影、という状態なので(苦笑)、あんまりきちんと見えないですが・・・
鼻のかたちはほぼ同じかな?

いわゆる”藤孝”時代の肖像画って残っていないと思っていたので、マジびっくり!
ほとんど展示されることもないですよね!?少なくとも私は見たことない!

しかもしかも、それ以外に2点、禅画(?)のような幽斎さん像も掲載されていましたよ!笑f:id:nashoy:20220319113005j:plain
こんなんあるんやぁ!!!!!

幽斎さんは、肥後細川家・近世細川家にとっては、家祖であり文武両道の凄い人物として祀られる存在であったことから、時代時代に肖像画が作成はされているんですよね。重賢のときに没後百五十年のために作成されたりとか。
南禅寺版のやつを模写したものが多いわけですけど、中にはこういうのもあったんすね!!!!
知らんかった!!!!!

束帯姿の藤孝時代の肖像画は、是非一度は生で拝見したいわぁ・・・・!!!!!

英甫永雄の頂相 / 論文紹介

f:id:nashoy:20220319111826p:plain
先日、京都の舞鶴市近郊で活動されている地方史研究会の方々が発行されている会誌を購入したんですよ。
HPに在庫等の情報が掲載されており、メールで購入依頼ができますので、気になる方は是非!「会誌」のところをクリック!↓
舞鶴地方史研究会

在庫が残っていない号であっても、コピー代の実費を支払えば送っていただけるという親切さ。
ありがたい限りです。

で、こんな論文があったのでご紹介!

中嶋利雄, 田辺一如院と英甫永雄, 舞鶴地方史研究, 27, 1-20, 1994

しっかし最近、本当に細川家に連なる五山禅僧の記事ばかりアップしているなwww

英甫永雄の肖像画について

で、内容もさることながら、そう!ずっと気になっていた英甫の肖像画が表紙めくってすぐに表れてめっちゃビビった!!!笑
アイキャッチ画像のやつです!!!!
以前この記事で触れていた、建仁寺に所蔵されているやつですねコレたぶん!

え~~~~~!?
英甫イケメンじゃねぇ!?!?!?!?

すっごい切れ長のいい眼をしていると思いませんか!?現代風のかっこよさ!??

これはアレか、父方の武田家の血なのか、もしかして母の宮川尼がこういう系だったりしたのかなぁ!?!?
こんなイケ禅僧が年若い少年僧とブロマンスしてたとか、ナニソレ!!そんな小説読みたい!!!!笑

細川家の面々(幽斎さんや忠興、忠利など)とはあんまり似てない感じ?

論文の内容

さて、論文の内容とは関係ないところで、一人で盛り上がってしまったわけですが(苦笑)
本文では、建仁寺十如院、田辺や福井にあった”一如院”と英甫との関係や、田辺や宮津で活動していた英甫のこと等を中心に論を述べられている。

田辺界隈に残る英甫の事績では

  • 沼田家関係の拈香文
  • 即安梅心童子画像讃
  • 中院通勝との交流

などがあげられている。


一つ目については、沼田光兼(=麝香の父)の三十三回忌や光兼の息子である一之斎弥七郎の拈香文を書いているのだそう。
田辺近辺には、祥雲寺や宮津珠光庵、文殊智恩寺など沼田家ゆかりの寺も多かったらしい。


二つ目については、細川家好きなら知っていますかね?
一色氏や明智光秀の供養塔や首塚が残されている盛林寺が所蔵している、幽斎さんの早逝した息子の像です。
細川家の家譜などには出てこない息子で、不思議な存在ではあるのですが、本論文では一歳にも満たずに亡くなったからか、と指摘があります。
この像に、英甫が讃を書いています。
所蔵先の盛林寺、こういう幽斎さんに関する後ろ暗い(?)関係者関連のものが残っているのです。
実は訪れたことがあるのですが、住職さんがめちゃくちゃ気さくで、お茶を御馳走になった(笑)

また英甫の漢詩集である『倒痾集』には、自らの讃とともに、幽斎さんの追悼歌も載っている。五十歳に近い年に生まれた息子の死をとても悲しんでいる内容だそうだ・・・


三つ目は、千句を一緒にやったりした記録が残っている中院通勝ですね。
これは有名ですかね。
以前、玄甫の記事で田辺の宗雲寺にあった宗雲寺の開山塔を也足と号したことに因み「也足軒素然」と称したという話があると触れました。
この論文でも

久美浜宗雲寺「也足亭」は彼のとどまったところという。

と指摘されているので、確かっぽいですね。出典は載っていないけど。。。
それから

田辺では年取島を中院の隠棲地伝えている。

とのこと。

ところでこの年取島、ちょっと調べたらこんなん出てきたwww
年取島 - Wikipedia

1580年(天正8年)、中納言中院通勝卿がこの島に滞在している時に、田辺城城主の細川幽斎が、船で島に通い、夜を徹して和歌を語りあったところ、島で初日の出を迎えたので、細川幽斎が 年取島 と名付けたと言い伝えられている。

出たよwwwどこでも幽斎wwwwwwまたお前かwwwww好きwwwww

はぁ!新しい論文を読むと、どんどん話題が広がって楽しいなぁ細川沼!!!!!笑
今回もまた結局すべては細川幽斎が持っていく記事になってしまったが、許してほしい!!!笑

志水宗加による細川幽斎追悼文 / 論文紹介

f:id:nashoy:20220319094349p:plain
なんと、細川家家臣のご子孫が書かれた、ご先祖が幽斎の死に際して書いた追悼文に関する論文を見つけてしまった・・・!!
なんというムネアツ案件・・・・!!
こういう論文があると知った時の、ドキドキ感が尋常じゃなかったですww
数日後には文献複写を済ませていた(笑)

志水義夫, 志水宗加の細川幽斎追悼文, 湘南文学, 45, 121-128, 2011

ご本人のブログもちらっとご紹介

著者ご本人は東海大学で教員をされておられるようです。
ブログをやってはって、この論文で取り上げている追悼文に関する記事が↓
大掃除 | 六條院日記
幽斎没後400年の記念式典にも出席されていたらしいし、ご先祖の足跡も辿られている!↓
殿のお召し | 六條院日記
ふたたび九州 | 六條院日記

論文複写できないって方は、こちらのブログで是非、数百年続く細川家と家臣のつながりに思いを馳せてください・・・・・
式典が2010年ですから、それを踏まえて2011年に発表したのが上記の論文ですよね・・・・!!
ほんと、滾る・・・・

(ところで、著者はオタク文化にも精通しておられるようで、ブログの写真にもたくさんフィギュアが出てくるし、まどマギに関するご著書もあるようだ!なんか親近感!笑)

志水宗加について

志水宗加(清久)は「青龍寺以来」の元も古い家臣の一人。
もともとは六角家に仕えていたようだが、なんやかんやあって、細川藤孝の与力に。
しかし、宇治槙島城の戦いの際では義昭方で戦ったのだとか。
落城後に山城の居住地に戻った後、藤孝に呼び出されて、西岡の志水の地を領地として認められ、信長方として弟と一緒に、藤孝さんのもとで従軍。
藤孝の次男・興元の世話役だったが、天正十八年に勘気をうけ、丹後から京に戻り剃髪。
しかしその後、豊前に移った忠興(三斎)に召し出され、再び細川家に仕えることになった。
そして中津で幽斎の死を知る。

丹後ではともに能を楽しみ、幽斎さんが死の直前に小倉下向した際には和歌の会に参列している。
文武において幽斎さんとともにあった人。

論文にもこんな文章が↓

ほんのいっとき幽斎の下を離れたことはあったものの、将軍義昭の幕下から幽斎と共にあった身の感慨として、それを基盤に、幽斎追悼文は作られたものであろう。

この文章を、数百年の時を経て、ご子孫の方が書いているということに感動を覚えます。
凄いな細川家と家臣の皆様の関係性・・・・・現代に生きるオタクにも新たな萌えを提供してくれる・・・

追悼文について

今回の論文で取り上げられているのは、熊本県立図書館の上妻文庫「秉燭雑録」巻四十四におさめられている「奉追悼 泰勝院殿前兵部和謌幷序」で、全文が翻刻され、解説がのっている。

幽斎への追悼に関しては、宗加以外にも関係者の詩文が『綿考輯録』におさめられているらしい。
巻六では、智仁親王烏丸光広、木下長嘯子、佐方之昌(=佐方宗佐)の順で幽斎さんへの追悼詩文が並んでおり、この後に宗加の作が載っているとのこと。
この顔ぶれに入っているということは、幽斎さんの弟子の一人と考えられていたっぽい。

追悼文の構成は柿本人麻呂の尊挽歌に通じているらしい。(無知な私にはもちろん、それが具体的にどんな構成なのかわよくわからん・・・汗)
歌は六字の名号(なむあみだぼ)のあいうえお文になっている。(論文でも、原文に寄せているのか「南無阿弥陀佛」の文字はフォントがデカくなってる)
そして最後には↓の和歌。

よろつよの かすにとらなん なか濱の 松もおもはん ことのはの道

これは田辺城籠城の際の「いにしへも~」の歌と、新古今745歌(藤原実方)の歌を踏まえているのだそうだ。
そのほか幽斎さんが秀吉関連で詠んだ歌の一つ、<住吉の神に心もあらはれて 君か八千代を松のことの葉>も踏まえているかもとの指摘も。

武人としての幽斎、文人としての幽斎、歌人としての幽斎

佐方之昌や長嘯子の追悼文では「歌人幽斎」が前面に押し出されているのと比較すると、宗加のそれでは”信長とともに足利将軍の「塩梅の臣」として活躍した”ところを取り上げていて、それ以降の幽斎さんのことは直接は語っていない。
つまり、いわゆる「歌道の弟子」の側面が強い人たちとはちょっと違って、宗加の視点は「武人」を脱ぎ捨ててはいないということ。

とはいえ、光広や長嘯子の追悼文や哀傷文にもみられる「幽斎」と「定家」を結びつけようとする意識は、宗加にも同じようにみられる。
「よろつよの」の歌では、定家が撰じた新古今集の歌と、幽斎さんの和歌の中でも最も有名といえる「いにしへも」の歌を踏まえていることにそれが表れている。

さらに、序文の最後には「心にうつるよしなしごとを」と出てきて、どう考えても、『徒然草』推しの幽斎さんのことを意識している。
細かい演出がひかるよ宗加さん・・・・!
というか、追悼文でも取り上げられるくらい、幽斎さんの『徒然草』好きは周知のことだったんだなぁ(笑)

論文のラスト、ちょっと長いですが引用させてください。

さらには序文の最後に見える「心にうつるよしなしごとを」の一節は、『徒然草』を好んだ幽斎の姿を導きだす効果を上げており、この序文は武人幽斎の事を叙しつつ、修辞のレベルで文人幽斎の姿を浮かび上がらせ、作者が幽斎の死に臨んだ情を六字の名号を冠に和歌で抒し、最後に「ことのはの道」の万葉を宣言して歌人幽斎の「御遠行」を悼むのである。

っっっはぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・宗加ぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

ご子孫曰はく”戦友にして主君、歌の師であった幽斎”のために、宗加がいかにいろんな思いを散りばめながら子の追悼文を書いたのかを想像すると、涙が出てきそう。
この論文見つけられてよかったなぁ・・・・

英甫永雄の文芸 / 論文紹介2本

f:id:nashoy:20220219095207p:plain
以前も少し記事にした幽斎さんの甥・英甫永雄に関して、その文芸活動に関わる論文を2本ご紹介。

深沢真二, 雄長老と和漢聯句, 国語と国文学, 71(5), 44-56, 1994

花田富二夫, 狂歌咄の人物―雄長老雑記―, 雅俗, 創刊号, 59-84, 1994

1本目:英甫永雄と和漢聯句

この論文では、英甫が参加していた和漢聯句についてざっくりとまとめられています。
主には以下の3種に分けられる。

  • ①幽斎さんを中心とした文芸ネットワークの面々と行っている私的な会
  • 後陽成天皇が開いた禁中での公的な会
  • ③和漢聯句における漢方の稽古の場だったとされる会

まず①について。
どうやったって、この時代に、細川幽斎との血縁関係がある時点でこのお方の影響がないなんてことがあるだろうか、いやない(反語)
本論文でも

雄長老が和漢聯句に遊ぶようになったのは、叔父である細川幽斎に導かれてのことであったと思われる。

と指摘されているほど。
幽斎さんを起点に里村紹巴や中院通勝ともつながっていったりして、英甫にとって母方の叔父である幽斎さんとの「肩肘張らずに和漢聯句を楽しむ間柄」がどれほど得難いものであったか、想像に難くない。
また参加者には英甫だけでなく、玄圃霊三(松井康之の母方の叔父)や梅印元冲(幽斎の同母弟)、少ないけど雲嶽霊圭(沼田麝香の甥)の名も見える。
細川家界隈の僧侶たちが勢ぞろいって感じですね!

②では、その幽斎さんや紹巴がやはり「地下」であることからなかなか禁中の会には呼ばれない(呼ぶことができない)一方で、英甫は後陽成天皇に重用されていたと。

雄長老は、慶長前期の堂上の和漢聯句において、漢方作者として欠くことのできない存在となっていたのである。

こちらにも、玄圃や梅印が参加している記録もあり。
梅印は後陽成天皇漢詩関係の講義をしていたりもするので、かなり天皇から信頼されていたのかも。

③では、経験豊富な英甫が指導的な立場で稽古をしていたのだろうと推測されている。
和句ができる作者が少ない場合には、和漢両方の句を英甫が詠んでいたのだろうと分析されていて、さすが幽斎さんの甥()ってところです、うん。

2本目:英甫永雄と狂歌

英甫といえば、狂歌ですよね。「近世狂歌の祖」なんて呼ばれることも。
この論文では、英甫の狂歌咄を基に、彼の詩文集である「倒痾集」などとの関連についてまとめている。
狂歌咄として有名な「醒睡笑」には英甫のことが24か所に出てくるし、その母である宮川尼(つまり幽斎さんの姉)のことも2か所出てくる。
本論文の序論には「五山の傑僧であった英甫永雄」とか「五山の禅僧として和漢の学に秀でつゝ、一方、艶詩をはじめ、狂歌の名手として世に名を馳せていた」とか書かれていて、にやにやしちゃうね(単純)

この論文でなんかしんみりした一文はこちら↓

彼の著述を一覧すると、五山という伝統を背負いながらも一個の自由人として生きた観も強いのであり、時には五山の頽廃と見なされようとも、己の忠実な心の表現は、当時にあっては新鮮な声だったのではなかろうか。

補注には、英甫の詠んだ約130首の狂歌がずららっと掲載されているので、気になる方は是非図書館などで複写をゲットしてみてください~!
その中に気になったものがあったので1つだけピックアップ。

わつらひは玄旨となをる幽斎のなをもこゝろは長岡のきやう

ちょっと何をかけているのか無知な私にはわからんのですが(ダメやん)めたくそそのまま幽斎さんのこと使って詠んでるぅぅぅぅwwww
ここにも叔父との気安い関係が透けて見えますねぇ。
うーんでもこれ、どういう意味なのかな。
長岡京と幽斎玄旨、を、なにかしら文字っているんだろうけども。。。

前の記事でも触れましたが、幽斎さんと英甫は、文学的にも強く結びついていたことがこの狂歌からもわかりますよねぇ。

玉甫紹琮と濃姫

f:id:nashoy:20220219094515p:plain
玉甫紹琮のことをネット検索していたところ、↓のような記事を見つけました。
織田信長と濃姫 | 3分でわかる織田信長の歴史

記事の中ほどに、織田信長正室とされている帰蝶/濃姫が施し、大徳寺塔頭である”養華院”を「玉甫が開創」したとあります。

おん!?
濃姫が施しをして、玉甫のために塔頭を!?!?

玉甫といえば、大徳寺130世住持であり、師である古渓宗陳の後を継いで総見院2世をしていたり、甥である細川忠興に頼まれて兄である細川幽斎の菩提を弔うために高桐院を開山したり、確かに大徳寺周りで色々と活動している禅僧です。(玉甫のことはこちらを参照のこと)

が、まさか濃姫となんらか関係があったとは!?

で、「養華院 玉甫」というキーワードで検索してみるとちょこちょこヒットする。

この↓の記事によると、そもそも「養華院要津妙玄大姉」が今日一般的に認識されているように、織田信長正室である帰蝶/濃姫であるとは確証はないわけそうですが・・・
泰巖宗安記:養華院は信長の寵妾
まぁ、大徳寺織田家と縁が深いところですから濃姫だとしても不思議ではないのでしょうけども・・・

こちらの論文によると、養華院は玉甫の住まいになっていたそうな。へぇ。
高桐院は慶長6年(1601年)に創建されているので、養華院はそれよりも前に創建されていて、高桐院ができるまでは玉甫はこちらにいたってことなのかな。

この論文には、高桐院に「養華庵」という塔頭あるいは寮舎があったと記されています。
養華院がなくなった後、高桐院ができて、そこに養華庵をつくったってことなのかも?
なんにせよ玉甫との関係性があるのは確実っぽいですねぇ。
(ちなみに同じく高桐院にあったと書かれてる「泰勝庵」は、戒名を考えても幽斎さんを祀るためのものですね!)

師である古渓は、怒りに触れて九州に配流されるまでは豊臣秀吉と非常に近しい関係でした。
もちろん兄である幽斎さんと秀吉との縁もあるので、これらの人脈から考えても、玉甫はわりと秀吉とは近しいのかなぁとは思ってました。
(古渓は千利休とも親しく、九州配流の前には利休が惜別の茶会を開いてくれて、そこに玉甫も出席しています。)

が、織田家ともけっこう親しかったんですなぁ。ビックリ。
もしかして織田家ではなく、個人的に濃姫と親しかっただけかもしれませんが、それはそれで理由が知りたい・・・

養華院(あるいは養華庵)は既に残っていないっぽいですし、玉甫と濃姫がどんな関係だったか詳細はわかりませんが、興味深い話題だと思ったのでご紹介まで!

細川家の家臣団編成の過程とは / 論文紹介

f:id:nashoy:20220212110551p:plain
2021年11月に参加した熊本大学の稲葉継陽先生の講演をふまえて、以下の論文を読んだらなかなか面白かったのでご紹介。
(講演のことはこちらで記事にしました)

吉村豊雄, 幕藩制成立期における大名の権力編成と知行制(一) : 細川氏を中心に, 熊本大学 文学部論叢, 41, 1-29, 1993

熊本大学リポジトリで公開されています。
こちらからどうぞ。

青龍寺以来」の家臣団とは

細川藤孝桂川以西=西岡地域の「一職」支配を信長に安堵されて以降、細川家はいわゆる大名家として進んでいくわけですが。
その中で、旧室町幕臣たちや在地領主たちを組み込みながら幕藩体制を成立させていくんですね。

本論文によると、藤孝が西岡(乙訓)地域に入城した当初の軍勢は、
①細川家譜代=有吉立言・斉藤元実
②旧室町幕臣=沼田清延・松井康之
③西岡地域の在地領主=志水清久・革島一宜・革島市介
④その他
という感じらしい。

で、永青文庫に伝わっている勝龍寺城の絵図を見てみると、細川家臣の中核を成すのは旧室町幕臣であることがわかる。
本丸や沼田丸といった城の主郭部分に隣接して、「沼田屋敷」「松井屋敷」「米田屋敷」が存在している。
そして城の北限には「神足屋敷」、南限には「築山屋敷」があって、神足家は西岡の被官、築山家は幕臣の一員とされていて、それぞれ現在の地名にも残っていて在地の有力者であった。
つまり、細川家に近しいところには幕臣として同僚ともいえる者を「客分」として家臣化するために置いて、在地の有力者にはもともとの在所をあてがいつつ城の外側に配置する、みたいな感じだろうか。
後に三大家老の一家となる有吉家については、屋敷名は残っていないわけですが、論文では「細川元常代の長臣」であり、沼田・松井・米田がくるまでは譜代筋の中心であったと指摘されている。
(ちなみに、米田屋敷の近くには「中村屋敷」があって、こちらは忠興を養育してくれた中村新助のおうち。後の知行もそこまで高くなく、おそらく藤孝の譜代筋の者だろうとのこと。ふむふむ、譜代筋だからこそ永禄の変後のゴタゴタにあって忠興を連れていけなくなった藤孝から、熊千代くんを預かったという感じかしらん?)

青龍寺以来」と称される家臣たちも、慶安三年(1650年)まで存続したのは二七家なのだとか。これが多いのか少ないのか、私にはわからぬ。。。
二七家には、別格的な松井・有吉両家は含まれておらず、有吉以外に譜代はおらず、西岡の国衆だった志水・神足が国替に従っている、といった特徴があるとのこと。
ふむふむ、筆頭家老である松井家と、唯一の譜代である有吉家は、もはや別格なのかぁ。

沼田家の存在感

細川藤孝やその周辺、あるいは室町幕臣周辺といってもいいかもしれないけど、とかく沼田光兼の娘や孫娘たちが嫁いでいるんですよね。
細川藤孝、築山貞俊、飯河信堅、荒川晴宣には娘が、細川興元、米田求政や松井康之には孫娘が、嫁いでます。ものすごく姻戚だらけ。(康之の正室・自得院については、いったん藤孝の養女としてから嫁がせてる)
福井~京都を結ぶ交通の要所である熊川をおさえていた沼田家は、けっこう幕臣の中でも顔が広かったんでしょうね。
婚姻戦略で幕臣たちとの強固なつながりを得ていきつつ、徐々に頭角を現していく細川家や明智家に組み込まれていくって感じかなぁ。
本能寺の変後、細川家に明智光秀の書状を届けたのは沼田光友、この論文の沼田家系図では「直次」となっている人物で、麝香さんのきょうだいの一人。のちに米田是政について最終的に細川家家臣になったらしい)

稲葉先生のご講演でも、これまで何度も沼田家が娘を有力者に嫁がせて地盤を固めていたっていう話が出てきましたもんね。

細川家家臣団の主流は室町幕臣出身者である

本論文では、かの有名な「古来番附」いわゆる「丹後細川能番組」の出演者記録から、やはり細川家の家臣の中核は幕臣出身者で固められていたと指摘。
この記録を見る限りは、在地の国衆層の比重は小さいのだそう。

これは私が前から思っていたこととも合致しますが、藤孝さんはやはり幕臣出身者、つまりは自分の元・同僚たちで能力のある人物は陰に日向に、登用している節がある。
自分の家臣に取り込むだけではなく、秀吉や家康に紹介したりもしてますもんね。
初期の細川家にとって、足利から一緒に離反して信長に、ひいては自分についてくれる有能な人材は、とてもとても心強かったでしょう。
その中でも、特に有能だっただろう松井と、信頼している妻の実家である沼田と、譜代筋といえる有吉と、文武に長けた米田と・・・こういった家々の者たちは特別に重要な位置を占めていたと考えてなんら不思議はない。

もちろん、志水、神足、築山なども、「大名細川家」の始まりの土地ともいえる西岡から九州まで付き従ってくれた「青龍寺以来」の家臣たち。
こういう領地となった地域の国衆たちの力も借りながら、最終的には54万石もの大国をおさめることができるようになったってことですねぇ。

細川家が今日まで続くことができたのは、どう考えても有能かつ信頼のおける家臣がいてくれたからこそ。
そしてそんな有能な家臣たちに見限られずにやってこれたのは、歴代細川家当主や御家に魅力があったからこそだなぁと改めて。

三淵邸の庭 / 論文紹介

f:id:nashoy:20220212104810p:plain
細川幽斎という人物は、もともと三淵家の出身。
これは、江戸時代に父親の出自のことを聞かれた忠興が、ほぼ唯一はっきり答えられた幽斎さんの出自に関する事実。
で、まぁ三淵家からは養子に出されたけれども、本家を継いだ兄(異母兄?)の三淵藤英とは足利義輝・義昭の両将軍に一緒に仕えていた。
(たぶん先が読め過ぎた)藤孝さんは、誰より早く足利将軍家から離れることになったので藤英とは袂を分かつことになったけれど、藤英とその嫡男である秋豪が信長によって切腹せしめられた後は、次男の光行を引き取って養育もしてることから、どう考えたって兄や本家への思いはあったはず。
また、三淵家の名跡は両名の弟の好重が継いでいて、細川家に仕えることとになる。(好重は先に幽斎さんの元に来ていて、その後三淵家の名跡を継いだってパターンもありうる)
つまり幽斎さんは、できる範囲で三淵の血と家の、両方を守ってるとも言えるのではないか・・・(血の涙)

で、今回はそんな三淵家のお邸にあったお庭に関する論文をご紹介。

清水正之, 山本繁雄, 大仙院庭園考, 大阪芸術大学 紀要<藝術>, 19, 51-56, 1996

こちらで全文読めます。

大仙院庭園

お庭関係とか詳しくないので、そのあたりのことはちんぷんかんぷんですが、大徳寺の北側にある大仙院の庭園。
作庭した人物にも古岳宗亘説とか、相阿弥説とかがあるらしいのですが、相阿弥作庭で移築っていう説がある。
さてその場合、移築ってどこから・・・・?

水淵家のお庭

「雍州府志」という山城国の地誌の中に、

大仙院之仮山東山同朋相阿弥之所作、而始在室町家臣水淵氏之家園。爾後移斯庭也。

という記述があり、どうも大仙院の庭は足利将軍家家臣の水淵氏のおうちにあった相阿弥作のお庭が移築されたものであると。
で、「京羽二重織留」という地誌にも同じようなことが書いてあるのだそうだ。

「水淵氏」とは、そう、「三淵氏」の表記違いですね。

この論文では、室町花の御所近くにあった三淵家の本宅の庭石が、藤英切腹後、藤孝と玉甫紹琮(藤英藤孝の弟、藤孝と同母とされる)によって大徳寺に移されたのだろうと指摘。
さらに玉甫紹琮が大徳寺に入院した天正十四年以降のそう遠くない時期に行われたのではなかと推測している。
(あ、玉甫はアレですね、忠興が幽斎さんの菩提を弔うために建立した高桐院の開基でもある人物です。以前のこの記事を参照ください!)

聚楽第の庭はもしかして・・・

で、「千代女書留」という書物の中に、聚楽第の築庭には細川幽斎千利休前野長康が関わったという記述があるらしい。
天正十六年四月に後陽成天皇行幸があるってんで、事前に聚楽第のお庭を整える必要があってこの3名が共同設計したのだそうな。
論文筆者曰はく、「千代女書留」で説明されている聚楽第の庭の様子は、まさに大仙院のお庭のことを言っているように思えるとのこと。

そう、天正十四~十五年頃に三淵家のお庭を移築した経験があるのなら、幽斎さんがその記憶も鮮やかなうちに聚楽第の庭にも同じようなテーマを詰め込んだとしても不思議ではないのではないかと・・・・・・・

幽斎さんの手ですくえるものすくえないもの

今回の興奮を呼び起こす一文は、論文のラストに。こちら↓

間違いなく幽斎は、三淵邸に残されていた庭園の價値を誰よりもよく知っていた。
大仙院へ移す場合も、忠実に元の姿の復元に努めたことだと思われる。

うぅぅぅぅぅぅぅぅぅ・・・・・・・・・・・・・・涙涙涙
なんかこう、なんかこうさぁ・・・・・・・・・・・
幽斎さんは切り捨てるべきもの、切り捨てるしか仕方ないものは、私情を挟まず冷徹な判断を下して手を離せる人だと思うんですけど、けどさぁ・・・・・・・・
こういう、自分が力を尽くせば残せるもの、美しくてなおかつ”誰か”の息吹が残るものをなんとか残そうとする人だってのが、もう、なんというか泣ける・・・・・・・・

三淵家という家を、幽斎さんがどう思っていたか、考えていたかはわからない。
でも、自分が生まれた家が持っていた素晴らしい庭を、どうにか残せないかと玉甫と云々考えて実行したのかと思うと、もう・・・・・オタクは泣くしかない・・・・・・

自分がすくえる範囲をよくわかっているので、それを超えてまではすくわない。それを非情だとか、言う人もいるんでしょう。
でも、自分がすくえるものは、努力してすくおうとするのも、細川幽斎というひとなんだと思うのです。

細川家のオタクになると、庭園史の論文を読んで泣ける・・・
大仙院には行ったことがないので、これは今後絶対に行って庭園を観なくてはいけませんな・・・

(というか、ずっと休止しているので、実はまだ高桐院にも行ったことないんですよねぇぇぇ。高桐院が再開したら、大仙院も含めて大徳寺周りを廻らないと!)

キャプチャの画像は論文からお借りしました