細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川忠興が烏丸光広に贈った琴!?

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別件を調べている最中に偶然たどり着いたメトロポリタン美術館(MET)のホームページで、ふらっと「yusai hosokawa」って検索したら、お箏がヒットしたんですよ。

うん?お箏???

となって、詳細を眺めていたら、最後の方に「Hosokawa Yūsai」「Yūsai's son-in-law, Karasumaru Mitsuhiro」「Yūsai's son, the daimyo Hosokawa Tadaoki (Sansai)」って確かに書いてあるぅぅ!!

このページです。


田辺城籠城戦の後に、「父を助けるために動いてくれてありがとな」って感じで、細川忠興烏丸光広に1,000日かけて作られたお琴を贈った、と????
そしてコレがそのお琴だと!?!?!?!?
えーーー???そんな話あるんすか!?!?!?
ちょいちょいちょいwww英語でそんな新情報もたらされるとか思わんやんかぁぁ!?笑

箱にどどんっと蒔絵かな?されているのは、烏丸家の家紋らしい。
えぇぇ。。。忠興そんなことしてたのおぉぉぉ。

早速「忠興 光広 箏」とかで検索してみたけど、よくわからぬ・・・ぐぬぬ・・・・
いったい出典はなんなのかぁぁ・・・・・

と思ってたら、こんなんが引っ掛かった↓(Weblio辞書より)

たまのうてな【玉台】
地歌箏曲の曲名。烏丸光広作詞。松浦検校作曲。細川忠興の次女をめとった時に、光広が三味線に添えられた七言一句「玉台是恋慕涙川」の意を歌に綴ったものに、曲をつけたもの。その三味線伴奏の原曲と合奏できるように箏の作曲をしたのは八重崎検校で、尺八を入れて三曲合奏とすることが多い。


をををを!?!?なんじゃこりゃ!?!?笑

うーーーん、烏丸家に嫁いだ細川家の娘というと「忠興の娘の万」ですが、それは光広の息子の烏丸光賢の正室ですよね。そう、忠興が溺愛していた万ちゃんです。
万は次女でもないしねぇ。次女というと、松井興長に嫁いだ古保になるのかな?

というかMETの説明文でも「幽斎の義理の息子:光広」ってなってるんですけど、うううーーーーんんん。そんな事実あるぅ????
弟子の一人である中院通勝には、確かに幽斎さんが養女とした人物を嫁がせてはいるけれども、光広にも側室あたりに誰か養女を嫁がせていたのかしら・・・??


これ、もしかしてこの箏は、万が光賢に嫁ぐときに忠興が烏丸家にプレゼントしたってオチじゃないのだろうか??笑
で、そのお祝い事のために万にとって義父である光広が詞を書いたのでは??
そして、忠興から贈られた箏でこの筝曲を演奏したのでは!?!?!?

と、思ったけど、実際に筝曲・地歌になったのはもっと後か(作曲者の八重崎検校は18~19世紀の人だった)

毎度のごとく、妄想という名の風船を膨らませてみては、すぐに割れるww
いやぁ、でも、烏丸光広に幽斎さんの娘や忠興の娘が嫁いでるとか聞いたことないしなぁ。
息子の光賢に孫を嫁がせている前に、幽斎さんが光広に娘(養女?)を嫁がせてるかなぁ。嫁ぐにしてもたぶん側室だろうしな。

うーーーむ、箏のこともわからなければ、光広本人に細川家の誰かが嫁いだのかどうかもわからない、謎が深まるだけでしたww
ネットの海を漂っていると、こんなことにもぶち当たるんですねぇww

細川幽斎・沼田麝香夫妻と末男・細川孝之の図

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2019年に肥後銀行の「肥後の里山ギャラリー」で、↓の展示をやっていて、観に行ったんですよね。
永青文庫展V 細川幽斎 文華の DNA-当代随一の教養人 幽斎-」

参考①
参考②

なんと無料!(肥後銀行さん太っ腹!!)
だったので、熊本旅行中の空いてる時間に2~3回訪れた記憶www
(平日1日だけの休みをつかって訪熊したような・・・夜行バスで行ったんだっけな・・・?笑)

この時の展示の中に、細川幽斎・沼田麝香夫妻を上部に置き、左下部に息子の細川孝之を配した絵図が出ていたんですよ。
展示リストを見返してみると大徳寺高桐院所蔵の「細川休斎孝養図」というらしい。なんと九州初公開だったようだ。
構図がすごく珍しいし、孝之の両親への敬いの心がよく表れている気がして、めちゃくちゃ「良い!!」って思った。

で、最近中古で手に入れた高桐院の冊子を眺めていたら、この絵図が載ってたんですよぉ!!!
該当ページを撮ったので汚いですが、こんな感じの絵です↓
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幽斎・麝香夫妻は、天授庵や永青文庫に所蔵されている遺像をほぼそのまま写している感じでしょうね。
んで、両親を拝むような位置に二人の末男である細川孝之(休斎)がいる。
この図自体は、この孝之の求めにより描かれたもので、複数人が同じ画面におさまり、3人それぞれに讃が書かれているのも珍しいらしい。
その讃3つ全てを書いたのは、幽斎さんの弟であり、甥の忠興からの依頼でこの高桐院の開山となった玉甫紹琮の法孫にあたる高桐院3世の清巌宗渭とのこと。

幽斎さんの最晩年、最期まで両親のもとにいたのはこの孝之だったでしょう。
孝之に自分の跡目を継がすんだ、という新年の気持ちを表したとされる幽斎さんの和歌が残っているし、いつか紹介したい山田貴司先生のとある論文でも、幽斎さんの遺品の多くはこの孝之が引き継いだことが指摘されていた。
孝之は長兄の忠興とは20歳以上年が離れていて、甥である忠利とは1歳しか違わないんですよね。
いつも拝見させていただいているこちら↓のブログでは、忠利が年の近いこの叔父に頭を悩ませていたことを記事にされています。
■忠利と叔父・孝之の仲(一) - 津々堂のたわごと日録

幽斎・麝香夫妻にとっては、かなり高齢になってからできた息子ですし、可愛くないわけないはず。(幽斎さんが50歳、麝香さんが40歳くらいのときかな)
両親から愛されてきたのであろうことが、その3人が同じ画面に描かれている図からもよくよくわかる気がします。
そしてそんな感じだからこそ、多少なりとわがままというか、甥である藩主の忠利を困らせるような性格になってたとしても、まぁ不思議ではない(笑)

幽斎・麝香夫妻には10名ほどの子がいたとされていますが、長男・忠興、次男・興元、三男・幸隆以降には、あまり男児には恵まれず、2人の息子が幼いころに亡くなっている(菊童と蓮丸)
そういう事情もあって、亡くなることなく大きくなった四男(末男)孝之のことはことさら可愛がっていたのかもなぁと妄想しています。

ちなみに法号の「休斎」は、孝之の年上の甥である細川忠隆の「休無」と、父である細川藤孝の「幽斎」からドッキングしているのかなって妄想もしているw
忠隆は廃嫡後に京都にいて、祖父母の世話になっていたという話もあるし、そうなれば必然的に老親のそばにいた孝之とも触れ合う機会は多かったのではないだろうか?
忠隆は能(だっけかな?)にも明るく、親戚筋の公家たちとも交流をもっていた文化人でもあったようだし、その年上の甥を孝之が尊敬していたって側面はあるかなぁと。

あんまり細川家関係の展覧会とかでも出てこない絵図だと思いますが、またいつか観たいですねぇ。

梅印元冲について調べてみた / 論文紹介

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以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。


「梅印元冲」とは、細川藤孝/幽斎の実弟
三淵晴員の息子の一人で、おそらく幽斎さんと同母で、清原宣賢の娘である智慶院が生んだらしい?
永禄二年(1559年)生まれで、慶長十年(1605年)に没。幽斎さんとはなんと25歳差!ほぼ親子っすねぇ。
(父である三淵晴員は1500年生まれ1570年没なので、彼が還暦の頃に梅印は生まれて、10歳過ぎには亡くなっている)
南禅寺の268世住持も務めていて、禅僧としてはエリートと言えるでしょう。
当時の公家の日記などには南禅寺の「冲長老」として書かれていることが多い。

以前話題にした(コレとかコレとかコレとかコレとか)『慶長日件録』にもけっこう出てくる。
禁中の和漢聯句や漢和聯句に参加している記録はもちろん、著者である舟橋秀賢(母とされる智慶院の出身である清原家筋の人物)ともちょこちょこやりとりがあったようです。
梅印は南禅寺の中でも「語心院」にいたようなのですが、日記の中でも頻繁に「語心院」が出てくるんですよね。(悟心院という表記もあり)
秀賢と梅印元冲はけっこう親しかったということでしょう。
ちなみに秀賢は彼の危篤の際にもお見舞いに行ってるんですよ・・・・
「慶長十年七月二十四日条」では、

早朝、南禅寺語心院冲長老、煩見舞二行、十死一生之躰也

翌日の「慶長十年七月二十五日条」では

南禅寺ヘ行、夜前、冲長老寂滅云々、仍爲吊企恨歌畢

梅印元冲の死を悼んで、恨歌を捧げてくれたのかと思うと、なんか泣けますね。。。
それから「慶長十年十月五日条」では

勾當御局へ参、南禅寺語心院冲長老、去七月入滅之刻、遺言、梅谷筆跡東坡可備叡覧云々、仍件本幷大蔵一覧(此本去六月二冲長老被申請)勾當御局ヘ令持参、令進上畢

という記事が。
なんかこう、悲しくなっちゃうねぇ・・・

で、そんな梅印に焦点をあてた論文を発見したので、図書館で借りて複写。気になる方は是非↓の本を借りてみてください~

柳田征司, 梅印元冲講智仁親王聞書『蒙求聞書』, 汲古書院, 国語学論集 : 築島裕博士傘寿記念, 575-595, 2005

梅印元冲について

ずっと梅印の生年がよくわからなかったんですけど、この論文によると、『鹿苑日録』慶長二年十一月八日の条に以下のように記録されているらしい。

新命卅九歳而住南禅。其字梅印也。早梅著花者。時節云字云書之。脩竹之句者。歳寒時節也。故書之。其上梅印者於予者後輩也。新命可依其人。書疏者亦可依其人。月渓見前不見後。担板漢也。故不改之。

で、慶長二年(1597年)に三十九歳ですから、永禄二年(1559年)生まれと推定できる、とのこと。


ふむふむ、もともとは1552年くらいの生まれのなのかなって想像していたのですが(なんでそう思ったのかの根拠は忘れた←)、もうちょい遅い生まれだったんですね。
『鹿苑日録』の天正十九年六月のいくつかの条には、梅印と思われる人物が「海印」という名で見られ、この時は「海印」と言っていたらしい。へぇ!
師である「梅谷元保(1516~1593、南禅寺第264世住持)」も南禅寺語心院にいたそうで、いつの頃からか梅印もここにいたのだろうとのこと。
ちなみに、慶長二年八月十五日に秀吉から建長寺住持の公帖を受け、さらに同じ年の九月二十八日に南禅寺住持の公帖も受けているのだそうな。
慶長年間には徳川家康との交流も伺えて、やはり幽斎さんの血縁ということもあるのでしょうが、時の天下人とも親しかったように見えますねぇ。

禁中での漢和聯句や講義

で、まぁやはり幽斎さんとの関係からつながったのだと思いますが、禁中での漢和聯句にわりと参加している。
後陽成天皇漢詩にハマっていた時期があるようですから、五山禅僧が禁中に招かれることも多かったのかな。
その際には、幽斎さんや玄圃霊三、英甫永雄といった近親者とともに参加していることも多く、細川家のネットワークを感じさせますねぇ。

聯句だけでなく、禁中で「錦繍段」や「蒙求」の講義をしていて、そこに智仁親王も参加していた。
智仁親王に対する色々な人からの様々な講義については、もちろん我らが幽斎さんによるものもあったり、英甫が行っているものもあったり、さらにいえば梅印と仲良しであっただろう舟橋(清原)秀賢など母方の親戚が行っていることもある。

つまり、五山のエリート禅僧であり、かつ京でもトップクラスの文系家系(どんな説明)である清原家と、智仁親王と個人的にもとても親しい幽斎(細川家)に連なる者であることなど、梅印の活動にとってはこういった要素が大きく影響していたんでしょうねぇ!

ちなみに幽斎オタクの私が盛り上がった文章を引用しておきます(個人的な趣味)

梅印の『蒙求』の講義も幽斎の紹介によって智仁親王により開かれたことも考えられる。三つ目に注目されるのは幽斎が弟梅印と行動をともにすることが少なくなかったらしいことである。

最初に書いたとおり、幽斎さんと梅印は25歳も年が離れていたわけで、一般的な兄弟関係ではなく、もはや親子や師弟関係っぽくなっていてもおかしくない気はする。
自分と同じく、母方の血筋が色濃く出て文芸に秀でた年の離れた弟を、なにくれとなく面倒見てあげていたとしても不思議ではないなぁと、オタクは妄想しています。


自分で言うのもなんやけど、こんなに梅印元冲について書いたブログは他にないだろうなwww
むしろ梅印について詳しく記載があるブログやネット記事があれば、教えてください!!笑

※画像はこちらからお借りしました→ 京都フリー写真素材

玉甫紹琮について調べてみた / 論文紹介

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以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。

玉甫紹琮は、細川藤孝/幽斎の実弟
三淵晴員の息子の一人で、おそらく幽斎さんと同母で、清原宣賢の娘である智慶院が生んだらしい?
1546年生まれで、1613年に没。幽斎さんとは12歳差で、弟である梅印元冲とは13歳差。
(父である三淵晴員は1500年生まれ1570年没なので、彼が40代半ばの頃に玉甫は生まれてますね)
兄弟の多く(藤英、藤孝、梅印)は自分より先に死んでしまってますねぇ。
末弟とされる長岡好重は1617年に亡くなったそうなのだが、彼は細川家家臣となっていたのであんまり京にはいなかっただろうし、そこまで交流はなかったかなぁ。好重は享年57歳らしいので、梅印と同年もしくは1560年生まれ?になるのかな。

大徳寺関連

さて、玉甫紹琮は禅僧です。細川家関係者の僧の例にもれず、臨済宗です。
千利休・秀吉関連で名前が出てくることがある大徳寺117世住持の「古渓宗陳」の弟子にあたり、玉甫自身は大徳寺130世住持でした。
古渓宗陳が開山した総見院は、古渓が配流された後に玉甫が継いだので、二人が両祖とされているのだとか。
昔のヤフオクこんなものが出品されていたようですよ。
説明文によると、玉甫は1613年6月18日に没したとあるな。

甥である細川忠興が父・細川幽斎の菩提を弔うために、玉甫を開祖として高桐院を建立したことは有名ですね。
インターネットで「玉甫紹琮」を検索すると、ほぼほぼ高桐院のことしかヒットしない(苦笑)

玉甫のトピックとして、後は「沢庵宗彭」との関係ですね!
以下の論文を見つけたので、読んでみた。ここから読めます。

船岡誠, 沢庵と武家, 北海学園大学人文論集, 23・24, 121-140, 2003

沢庵の弟子が記した「東海和尚紀年録」によると、沢庵は30歳の慶長七年(1602年)に細川幽斎に和歌百首の評を乞うたと出てくるが、裏付ける証拠はないとのこと。(これが細川家関係者とのつながり見える最初?)
ただし、幽斎さんの弟たる玉甫が「一派の彦老」であり、沢庵のことを早くから「法器」として評価していて、大徳寺153世として沢庵を推薦したりしているので、沢庵と幽斎・玉甫兄弟とのつながりはあったように思えますよねぇ。
(ま、沢庵はその後わりとすぐに住持をやめちゃうらしいんですけどもw推薦した玉甫の立場ww)

絵師との関係

高桐院関連の話題を避けながら(笑)インターネットで「玉甫紹琮」を調べていると、2名の画家との交流が見えてきたので、メモしておきます。

長谷川等伯

一人は長谷川等伯
天正17年(1589)長谷川等伯が描いた稲葉一鉄像には、玉甫が賛を書いています。京都の智勝院が所蔵しているものらしい。
参考

文化遺産データベース↓では、作者は長谷川等伯と断定できないけれども、絵のタッチや後年この一鉄像に賛を書いている玉甫の像を等伯が描いていることからも、その可能性は十分あるとされています。
文化遺産データベース


なんで一鉄像に玉甫が賛を?と不思議に思うけれど、稲葉家と細川家は、細川忠利時代にかなり親しいことが知られていますね。
一鉄(稲葉良通)の娘が、明智光秀重臣として有名な斉藤利三に嫁ぎ、その娘が徳川家光の乳母としてチョー有名な春日局ですね。
で、春日局の息子である稲葉正勝と忠利がめっちゃ仲良かったわけです。春日局との書状のやりとり(金銭的なやつねw)も残っています。
とうらぶファンには、篭手切江くんを通して両家のことを知った方も多いのでは?
明智家と稲葉家、明智家と細川家との関係を考えれば、稲葉家と細川家も自然と近づいていたことも十分考えられそう。


で、前述の玉甫紹琮像は高桐院に残っているもので、慶長14年(1609年)、等伯が71歳のときに描いている。
(キャプチャの絵。このページにもその像が載っていました)
どうかな?幽斎さんと似てたりしますかね?笑
この作品は、等伯の最晩年に描かれたものでもあるらしく、やっぱり等伯とけっこう親しかったといえそうですよねぇ。
この讃は玉甫本人が書いているそうで、自分が死んだらこれは笑具としてくれって簡略的な筆で書かれているらしい。飾らない人っぽいですね。

雲谷等顔

で、もう一人は雲谷等顔。
以下の論文によると、高桐院に残る画(高士図座屛)は玉甫と等顔とのつながりを示すものだとのこと。

江村知子, 展覧会評「没後四〇〇年 雲谷等顔」展, 美術研究, 427, 79-84, 2019

ここから読めます。



残念ながらこの絵がどんなものなのかは、画像検索では発見できなかった・・・
論文では、

この作品は風格のある漢画画題が小さな画面の中に凝縮されているように見受けられた。

って評されていて、どんな絵なのか大変気になるわけなのですが。。。

と、このブログを書いている間に中古で手に入れた高桐院の冊子にこの図が載ってた!グッドタイミング!笑
ちょろっとだけ写真撮ってみた↓
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等顔は基本的に水墨画をよく描いていたそうで、彩色のものは珍しいのだとか。
写真で見るとけっこう傷みがひどそうかな?
この冊子自体は10年以上前に発行されているようなので、上記の2019年の展覧会では多少なりと修復された状態だったりしたのかしら?


こちらも詳細がわからないけど、雲谷等顔が描いて、玉甫紹琮が賛を書いている「達磨図」というものもあるらしい?
コレかな?メトロポリタン美術館のHP?
「遠孫比丘紹琮謹讃」と書いてあるっぽくて、うん、確かに「紹琮」ですね。
肖像画の讃もそうだけど、玉甫はあんまり字がうまくなそうで親近感が持てるわww(失礼)(あえて簡素な字体にしているのだろうけども)(幽斎さんと比べるとさ、ホラ、ね?)
英語の紹介文に

The inscription (read left to right, the reverse of the standard method of reading Chinese or Japanese) is by Gyokuho Jōsō (1546–1613), 130th abbot of the Zen monastery Daitokuji in Kyoto.

とあるので、玉甫で間違いないようです。
これはアメリカ人のコレクションになっているんですねぇ。玉甫の讃が海を渡っている・・・!笑



桃山時代の絵画史における四大巨匠とは、狩野永徳長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らしいのだけど、玉甫はそのうちの2名とわりと親しかったといえるっぽい?


友松については、幽斎さんと英甫永雄とが親しかったんですよね。建仁寺に作品が残っているので、幽斎から英甫に友松のことを紹介したりした可能性はありそう。
四大巨匠のうち、3人をおさえている細川家界隈さすがですね(笑)


生涯のことはよくわからない・・・

正直、玄圃霊三や英甫永雄、梅印元冲に比べると、どういう生涯を送ったのか的な情報がないんですよねぇ。
いや、沼田麝香の甥であり、玄圃の指示のもと天授庵を再興した雲嶽霊圭よりはマシなんですけども。。。


ところで、つい最近細川ガラシャ周辺を研究されている日向志保さん(ひなほ (@ShihoHyuga) | Twitter)が「玉甫紹琮によるガラシャ七回忌 : 戒名「秀林院殿」をめぐって」という論文を発表されています。
残念ながらまだ内容を確認できていないのですが、これは読まねばいけませんね!(まだ読んでないのかよ)
この論文に玉甫の生涯とか触れられてたりしないかなぁ。
また玉甫についてわかったことがあれば、まとめようと思います。

英甫永雄について調べてみた / 論文紹介3本

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以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。

幽斎さんの甥に、英甫永雄という禅僧がいます。
この方について調べてみてわかったことと、ちょっとした雑談。
「雄長老集」という書籍の中の、以下の3本の論考を参考にしています。

永江秀雄, 雄長老の出自について・補注, 雄長老集 上巻, 463-481, 1997

蔭木英雄, 「倒痾集」の世界 ―織豊時代の五山文学管見―, 雄長老集 上巻, 483-539, 1997

伊藤東慎, 狂歌師雄長老と若狭の五山禅僧, 雄長老集 上巻, 539-598, 1997

宮川尼

幽斎さんの異母姉である(とされる)宮川尼は、若狭国人の武田信高(信重とも?)に嫁いだ。
夫はこの人↓です。
龍泉寺:絹本著色武田信高画像
当時の狂歌咄にもちょいちょい出てくる宮川尼ですが、それらのエピソードを見る限り、けっこう愉快な女性だったんじゃないかなって思う(笑)

幽斎の甥・英甫永雄

で、この宮川尼と武田信高の間に天文16年に生まれたのが、英甫永雄。
読みは「えいほ ようゆう」でいいと思います。
「えいほ えいゆう」というフリガナもよく見られますが、口に出して読むなら「えいほ ようゆう」の方がしっくりくるもんな(独断と偏見)

そう、幽斎さんの甥ですね。英甫から見ると、幽斎さんは母方の叔父。

この英甫永雄さん、僧侶になるんですけど、けっこうなやり手。
当時有名だった禅寺五山の一角、建仁寺で学び292世住持となり、南禅寺でも入寺はしていませんが住持になった人物なのです。
同時代の人の日記なんかにも出てくるんですけど、「雄長老」っていうのがこの方のこと。


五山学僧は、当時の上皇天皇親王や公家の人たちと、和漢聯句や和漢千句などを興行しています。
英甫も、そういった会に参加して漢句を詠んでいますね。

さらに彼は「狂歌」でめちゃくちゃ有名なんですよね。「近世狂歌の祖」とか言われることも。

かの有名な(って私はよく知りませんが←)、林羅山が師事していたのもこの方だったりする。

あとは、海北友松を好きな方ならその方面から名前を聞いたことがあるかもですね。
おそらく幽斎さんからの紹介で、友松と英甫永雄がつながって、その後建仁寺に出入りできるようになって傑作が残されたってところでしょうか。

艶歌

そんな英甫ですが、変わった話題としては、とある少年僧(梅岳元真というらしい)への想いを艶歌に残していることでしょう。
当時の五山では、けっこうこういう若衆文化とかで退廃が進んでいたりもしたらしく、英甫のこういう歌もその例として批判的に捉えられていたりするみたい(汗)

英甫の詩文集「倒痾集」にはこの梅岳に呈する作品が三十二首もある(!)

(ところで、”梅岳元真”って絶対に”梅印元冲=幽斎弟”となんかつながりありますよね・・・どっかで法嗣関係か師弟関係でつながっていますよね・・・・????)

細川界隈のネットワーク

なんかね、やっぱり細川界隈のネットワークってすごいもんだよなと思うのですよ。
この英甫はもちろんですけど、幽斎さんの弟の玉甫や梅印もそこそこな僧侶ですし、松井康之の叔父である玄圃霊三ってのも有名な僧侶なんですよね。(別記事参照
こういう人たちが持っていたいろんなつながりを、もちろん細川界隈の人たちも存分に使っていたでしょうし、活かしていたでしょう。

細川家が、様々な状況下で、様々な天下人のもとで、生き延びてこられたのは、こういう広がりのある人的ネットワークが確かに存在していたからこそだよなって感じています。

幽斎と英甫

上述の蔭木氏の論文では、幽斎さんと英甫が、血縁的な繋がり以上に文学的な繋がりが強かったと触れられています。
また、英甫が亡くなった後、その死を悼んで幽斎さんが詠んだ歌が残っています。

長月のいざよひの月の影さへてむなしき空やかたみなるらむ

「空の教えが英甫の形見」であるという歌。
文学や仏教の話を二人でいっぱいしたんだろうなぁ・・・
息子の忠興ほどではないですけど、当時の平均を考えれば幽斎さんもわりと長生きな方。
才能溢れる年下の身内が先に逝ってしまうのはどれほど哀しく寂しいものだっただろうかと、この歌を眺めてると切なくなってしまうオタクです。。。(最終幽斎に持っていくいつもの手法)

※画像はこちらからお借りしました→ 京都フリー写真素材

玄圃霊三について調べてみた / かるく論文紹介あり

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以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。

禅寺の頂点でもある南禅寺266世住持である玄圃霊三。
松井康之の叔父であり、当時の五山屈指の名僧であったらしい。
以下、玄圃について調べて、現時点でわかったことをできうる限り羅列します。
後から増やすかも・・・

生まれ

足利幕臣だった荒川澄宣の息子。生没は1535年~1608年。幽斎さんの1歳下、吉田兼見と同い年。
兄に荒川晴宣がおり、姉は松井正之(広之?廣之?とも)に嫁いだ。その姉が生んだのが、松井康之ですね。
なので康之にとっては、母方の叔父ということになります。
ちなみに、兄・晴宣の室は沼田光兼の娘なので、麝香さんと姉妹。晴宣と藤孝は沼田家の婿同士にあたります。姻戚ばっかだよなぁホント。

秀吉の朝鮮外交

漢詩に堪能ということもあり、秀吉の朝鮮出兵の際には東福寺の惟杏永哲や相国寺西笑承兌とともに、外交僧として明や朝鮮との交渉役を任されていた。
この時は忠興も従軍してますし、その下で甥の松井康之やその長男である与八郎も出兵している。残念ながら与八郎は、この戦で負った怪我が原因で亡くなってしまうのですが・・・(次男である興長が松井家嫡子となった原因ですね)
秀吉は松井康之のことをめちゃくちゃ評価していましたし(なんせ直接自分の配下につけようとしたもんな)そんな康之の叔父であり、有能な玄圃のことも信頼していたってのは全然おかしくないですよね。
ちなみに、西教寺の絹本著色豊臣秀吉像の讃は玄圃と惟杏永哲によって書かれているそうな。

近衛家

近衛家細川藤孝の関係性が深まるきっかけは、この玄圃が近衛家と親しかったからではないかと五山文学を研究されている中本大氏は論じていたりする。
そのことについて触れられている論文はこちら↓

中本大, 永禄3年正月の近衞家の文事--近衞稙家新年試筆詩をめぐって, 立命館大学 論究日本文学, 84, 1-11, 2006

全文読めます→こちら

有名な弟子

玄圃に師事していた弟子で、有名人もいます。
以心崇伝。「黒衣の宰相」として有名な金地院崇伝のことですね。
足利幕臣の一色家に生まれたが、幕府が織田信長においやられ父・一色秀勝が幕府に殉じたことで、4歳で南禅寺に預けられ、玄圃に師事していたらしい。
時の将軍(的な立場の人)と交際することができる能力は、もしかしたら玄圃譲りとも言えるかもしれませんねぇ。
足利幕臣関係者たちは、なんだかんだとお互いに蔭に日向に助け合って次の時代へバトンをつないでいる気がします。幽斎さんもそういうところあるある。

後陽成天皇

後陽成天皇の和漢聯句にちらちら参加している。
当時の公家の日記にも、「南禅寺の三長老」として出てくるようです。
五山僧は特に漢詩に堪能な方も多く、後陽成天皇漢詩にハマっていた時期には高僧たちが宮中の句会によくお呼ばれしていた模様。
幽斎さんの弟である梅印元冲も、後陽成天皇周辺でちょこちょこ見かけます。

できる男・玄圃霊三

玄圃のことを調べていると、けっこう「当時屈指の名僧」とか「俊英」とかいうワードに出会う。
マジでできる男だったんだろうなぁ。。。
なんとなく無茶ブリにも応えちゃう康之との血のつながりを感じますよねぇ。

南禅寺と宗雲寺

どちらも玄圃にゆかりの深いお寺。
南禅寺はいうまでもなく、玄圃が266世住持となったお寺。十如院や聴松院、天授庵などの塔頭が特に縁があるかな。
臨済宗禅寺の中では特に格式の高い。

宗雲寺は、丹後時代の細川家で久美浜を任されていた甥の康之に、父・正之の菩提を弔うため再興を依頼されて、玄圃が中興の開基となったそうな。
そのため宗雲寺には、玄圃ゆかりの品も多く伝わっているのだとか!
このお寺ももちろん、臨済宗南禅寺派

肖像画

弟子であり、南禅寺273世の雲嶽霊圭の求めに応じて作成され、玄圃自身が讃を書いている肖像画が宗雲寺に残っています。
コレ↓!
デジタルミュージアムF33玄圃霊三関係資料/京丹後市

雲嶽霊圭は、そう、沼田麝香の甥ですね。玄圃の法嗣でもあり、彼に指示されて天授庵を復興した人物でもある。
現在の福井県、若州前川城主・山形刑部少輔に、麝香さんの姉妹が嫁いで生まれたのが雲嶽です。
玄圃と直接血のつながりはないけれども、荒川家・沼田家(+細川家・松井家)とのつながりを考えれば、単に師弟の関係だけではなかったでしょう。
ちなみに、雲嶽は天授庵の「細川幽斎夫人像」にも讃を書いています。「幽斎像」の方は以心崇伝です。2人とも玄圃の弟子ですねぇ。

中院通勝

女性関係でやらかし()、後陽成天皇の勅勘を蒙った後、幽斎さんのいる丹後で20年近くを過ごした中院通勝。
ネットで検索していたところ、通勝が丹後にいた頃に玄圃について剃髪し、宗雲寺の開山塔を也足と号したことに因み「也足軒素然」と称したという話が出てきた。
へぇ!也足軒の由来が、宗雲寺とは知らなかったぁ!
通勝は幽斎さんの文芸上のパートナーともいえる相手ですし、当然ものすげぇインテリ。
漢詩もできたでしょうし、玄圃と話も弾んだのだろうなぁ。



とりあえず、現時点でわかったことだけまとめました。
玄圃、やはりデキる男ですな・・・
今後も新しい情報を得たらアップデートするなり、記事を増やしたいですね。
情報提供大歓迎です!笑

「水前寺成趣園350年講演・シンポジウム 」:オンライン視聴しました

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2021年11月27日(土)に熊本城ホールで行われた「水前寺成趣園350年講演・シンポジウム 」
本当は現地に駆け付けたかったんですが、なかなか予定が合わず訪熊は断念し、おとなしくYouTubeにてオンライン視聴させていただきました~
コロナ禍による利点の一つは、このオンライン提供が浸透してきたことですよねぇ。ありがたい限り。
それにしても11月は細川家関係の講演会が多かったですねぇ!これで3回目です、充実!

基調講演は奈良大学千田嘉博先生、パネルディスカッションには細川クラスタにはお馴染みの熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽先生がコーディネーターを務め、千田先生をはじめ、本記念祭の実行委員長であり永青文庫の理事でもある吉丸良治氏、細川家と赤穂浪士との縁から赤穂市長の牟禮正稔氏、観光がご専門の東海大学教授の小林寛子氏。
合わせて3時間40分ほどあったんですが、全てオンライン配信してもらえて、熊本県外にいる我々にとっては本当にありがたかったです。感謝。

いつまで視聴できるのかわかりませんが、以下のYoutubeアーカイブが見られますので、見逃してたって方は是非。

水前寺成趣園350年記念講演・シンポジウム - YouTube

今のところYoutubeで視聴できるので、内容はけっこう詳細に記録しています。(詳細すぎてまずかったら後でこっそり消します。)

細川綱利と水前寺成趣園

今年は、肥後細川5代の細川綱利公が寛文11年(1671年)に大規模築庭により水前寺成就園を完成させてから350年にあたるのだそうな。
綱利公はあれですね、赤穂浪士大好きで、相撲大好きで、筆頭家老の松井興長に長~~~~い手紙で諫められていた当主です(笑)
父親であり先代の光尚公が亡くなったのは、綱利がまだ六丸と名乗っていた6歳のころであり、家臣たちや姻戚の小笠原家の協力もあって細川家の改易は免れたものの成人するまでは江戸で過ごしていたこともあるのか、非常に自分の嗜好に忠実な側面があった。
後から見れば、色んな文化や人材を大事に扱ったといえるのだろうけど、興長を筆頭に家臣団にとってもはたいへんお世話がたいへんな当主でもあったでしょう。

水前寺成趣園は、何度も訪れていますが、本当に水が綺麗で綺麗で!
毎回驚くくらいの透明度なんですよね。すごく好きな場所です。
園内には細川家の歴代当主が祀られている出水神社があったり、京都から古今伝授の間が移築されてたりするので、熊本には直接関係がない細川藤孝・幽斎とも今では縁が深い場所になっていますね。
細川家にハマってからこっち、年に一度は訪れては出水神社のお守りを買い替えしている私です。
(出水神社のことは以前この記事でちらっと書きました)

千田先生による基調講演

話がそれましたが、今回の講演について。

基調講演をされた千田先生はやはり知名度の高さ故の人気か、長岡京市で開催された講演会などにはいつも応募するものの抽選に落ちておりまして・・・(苦笑)
昨年度までは大河効果(?)もあって、有名な研究者の方が細川家関係の話をしてくださる機会も多かったのですが、コロナの影響で悉く中止や延期となったり、抽選に外れたりで・・・
なので今回オンラインとはいえ、お話を聞けてよかったなぁと。

今回のテーマは「水前寺成趣園・熊本城と細川綱利」
テレビにもよく出ておられますし、講演会にもたくさん出演されているからでしょうが、千田先生のお話はちょっとジョークも混ぜつつ、飽きさせない内容になっていたように思います。

以下、講演で気になったところの個人的メモ

  • 太平の世になりつつあった江戸時代では、お城は単に”武”の要素だけがあればいいのではなく、お庭のような癒しの部分も必要。現在のビル群の中の公園や樹木のようなイメージ。
  • 今も当時のままのかたちが残るお庭は全国的に見ても数少ない。そんな一つが水前寺成趣園
  • 成趣園の築山の一つは富士山を模していると言われているが、これは宝永の大噴火の前の姿。
  • 勝龍寺城の例などを見ても、細川家は藤孝の頃からけっこうアクロバティックなことや先進的なことをしていた。
  • 小倉城では低湿地の沼地に石垣をつくることを経験していて、それが熊本での生産力向上にも役立ってる。「沼地のスペシャリスト」でもあった細川家。
  • 中世的な伝統を守るだけでなく、加藤清正時代にはなかった最新技術を取り入れて強化、発展させてきた熊本城の石垣。
  • ”武”の力ではなく、”文化”の力で肥後を治めていく綱利の志を、水前寺成趣園は伝えている。

本講演のパワーワード「チキリ」ですね(笑)
今度、成趣園を訪問した際は探そうと思いますよ!

パネルディスカッション

パネルディスカッションの方のテーマは「肥後細川文化の魅力に迫る」
それぞれのお立場から、綱利公や成趣園、肥後熊本に関するお話をしていただきました。

稲葉先生による、基調講演のまとめが大変わかりやすかったのでメモ。千田先生も「あんなに話したのに数分でまとめられちゃった!」っておっしゃってましたw

  • 「中世以来の伝統を守るだけでなく先進的なことも取り入れる細川家」
  • 「水のある所に石垣をつくる技術」
  • 「それを城だけでなく、庭園にも活かす」
  • 「日本の中で見ても貴重なものを今後も守っていく重要性」

各氏の話を全て取り出すと長くなるので、以下個人的に気なったところを取り上げます。(それでも長いけどw)

(稲葉先生)
最近見つかった史料において、忠利は良い君主である国内的に知られていたことがわかった。
それ以前がけっこう個性的な君主だったのであまり注目されてこなかった綱利時代だが(苦笑)、実は内政的には「寸志」の制度が初見されたり、「根取」の役職をはっきりと設置している最初期であったりと、その後につながるいいことしている。
1673年(?)家臣同士の決闘があった際には、咎めるのではなく「こんな太平の世にお前のような者がいるなんてすばらしい」って山名十左衛門を家老に取り上げたりした(←コレ、すごく綱利っぽいww)
堀内伝衛門の記録を見ると、浪士たちとは”人間同士の魂の交流”だったことがよくわかる。その縁が今でも続ている。
ある書状には、藩主が不在のときは成趣園の見学OKという内容が見える。武士身分の人だけだったかもしれないが、当時も癒しの場にはなっていた。

(吉丸会長)
小さな頃は江戸にいた綱利は、かなり大きくなってから(二十歳前くらい?)やっと肥後に来ることができた。だからこそ、入国後は領内をあっちこっち見て回った。
水のことをとても重要視していて、よく考えていた。
綱利の二大エピソードは、赤穂浪士と相撲(吉田司家)←有名ですねww
綱利は(決して幕府の意向に背く対応をしていたわけでなく)、怪我の酷い者には医者をつけていいか、煙草は許可していいのか、一つ一つ確認して赤穂浪士の対応をしていた。

(牟禮市長)
細川家にお預けとなった17名の赤穂浪士のお世話をした堀内伝衛門の縁から、赤穂市山鹿市姉妹都市
赤穂浪士から細川家への提言として「蝋をとることができるから、櫨(ハゼ)の木を植えるといい」と伝えたという逸話がある。この逸話が本当かどうか定かではないが、現在熊本県は蝋の生産量で全国の30%を占めているのだとか。
市長のご近所さんの「フクダさん」は、坂越で船関係のお仕事をしていた家系。何か果報なことをしたのか、細川家から御座船の先船をもらったらしく、それが瀬戸内三大船祭りのひとつである「坂越の船祭り」に使われる船の初代だったとか・・・

(小林先生)
熊本の方は謙遜するが、もっと故郷を誇ってください!今日の講演を聞いても、素晴らしい歴史や文化や伝統がたくさん残っているのだから。
水が本当に素晴らしい。水がいいから食べ物もおいしい。
お城のことを景色として楽しむだけ(外観の写真を撮るだけ)の人もいるだろうが、一歩踏み込んで少し歴史や文化を知るともっと知りたくなる人もいるはず。そうすれば自ずと滞在時間も長くなり、お金も落としてくれるようになる。

(千田先生)
幕府がどう出るかわからないリスクがある中で、忖度せずに綱利自身の「武士たるものこうありたい」という思いに従って赤穂浪士たちをもてなした。
江戸時代はお城を維持するだけでも難しいが、細川家は丁寧に修復している。
当時の庭園では、文芸活動や芸能活動が行われていた。そういう体験ができるようになるといい!例えば、赤穂浪士にふるまった二汁五菜を成趣園で食べられるイベントとかいいんじゃない!?(ほかの皆様も「それはいいですね」って好印象でした)

当初の予定を15分ほどオーバーするほどのボリューミーな内容でしたが、大変興味深く聞かせていただきました!

綱利はこう、自分が興味をもったことへの行動力は凄すぎるのがよくわかりますよねぇww
稲葉先生もおっしゃっておられましたが、細川家はなんせ初代~三代(藤孝→忠興→忠利)がそれぞれ毛色の違った個性派でかつ文武に長けた人物も多い上に、興長からの諫状のイメージも強いから、彼らと比べるとどっちかっていうと「ダメ子ちゃん」みたいな印象がある綱利公。
でも彼の”推し”への熱い思いが、今でも赤穂と熊本をつないでいたり、美しい庭園として残っていたりして、私たちを楽しませてくれているわけで。
そんな細川綱利のことを再認識することができた講演でしたね。

ちなみに現地では、11月28日(日)も色んなイベントが目白押しだったようです。→http://www.suizenji.or.jp/suizenji-350th-Anniversary-Leaflet.pdf
出水神社の宝物展とか観に行きたかったなぁ。