細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

大徳寺の月岑


ちょっと玉甫紹琮のことをネットで検索しているときに以下の資料を見かけたんです。

こちら

有名な(ですよね?)僧侶の一人である沢庵に関する講演の書き起こしのようです。
(そういえば著者の船岡誠氏が書いた「沢庵と武家」という論文を以前読んだことがあります)

で、この資料の中にちょっと気になる内容が・・・

大徳寺総見院の住職であった玉甫が亡くなった後、その後継者をめぐって論争が起こるんですね。
なんか過去に読んだ他の論文でも出てきたと思うんですが、忠興も関わった一件ですよね?
玉甫の法嗣であった賢谷宗良という人物と、玉甫の兄弟弟子であった月岑という人物の、どちらが住職になるかでもめた。
玉甫からの流れで行くと賢谷なんだけど、彼はまだ大徳寺での経験が浅くて住職にはふさわしくないのでは?みたいな指摘があったらしい。
最終的には忠興のごり押し?とかもありつつ、なんとか賢谷が継ぐことになったのですが、彼の対抗馬たる「月岑」、なんか見たことある名前じゃありません・・・??



・・・・そうなんです、以前「玉蔵主とは?月岑長玉とは?」という記事を書きましたよ自分で!笑

出てきているね!?「月岑」!?!?

東福寺の「玉蔵主」という人物が誰なのか調べて、玉甫なんかな?月岑なんかな?って結局どっちかわからんかったやつ!笑

はぁん!?玉甫関係で月岑と細川家が揉めていた案件があったわけだな!?

と、思いましたが。
あのとき調べてた月岑長玉は玉甫よりかなり年上っぽかったしなぁ、年代合わなさそうだなぁ??

と気づきまして、ちょろちょろ調べてみたところ、賢谷と争ったのは
月岑宗印
という人物だったようですな!笑

大徳寺の142世で、確かに玉甫と同じように古渓宗陳の弟子であるらしい。
玉林院を建立したって情報が出てきた。
生没年は1560年~1622年
玉甫が大徳寺130世で、1546年生まれなので、一回りくらい若いのか。

師である古渓との縁からいえば自分の方が後継にふさわしいだろって感じだったのかな、月岑としては。
あるいは兄弟子である玉甫にいい感情がなかったので、賢谷にも厳しい目線を送っていたとかなのかも?
こういう諍いが玉甫の周辺であったことを考えると、東福寺の「玉蔵主」問題も玉甫なんかなぁぁぁ??

・・・・結局、何の話なのかよくわからなくなりましたがww
月岑って人物がそこそこ近い世代に2名いたんだなってことを新たに知りましたww