細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

文書にみえる空盛と恵祐


空盛と恵祐の存在を知るきっかけとなった論文に提示されていた史料に関してのメモ。

東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベースより
【書名】賜芦文庫文書
【号】42
【史料名】光明真言過去帳并紙背[原蔵 東寺観智院(京都市下京区九条町)]
HPはこれ

論文はこちら↓

生嶋 輝美, 家臣団形成期の細川藤孝と「東寺の宗及」, 年報中世史研究, (48), 99-129, 2023

生嶋氏が史料「第十一」の具体的にどのページを参照しているのかまでは論文に載っていなかったのだが、眺めていると確かにこの史料の中に、ちょこちょこ2人の名が見える(気がする)。

75ページや76ページに「恵祐所志~~」や「空盛所志~~」と見えるのが2人っぽい、よな?(この部分の内容が私にはわからないが、二人が法要をしたってこと???←相変わらず古文書読めない。。。)

あと紙背?の方だと、169ページと176ページに一応二人の死亡日と相当しそうな人物の表記がある。「法厳院第十住寺」とか「法厳院第十一代住寺」って見えるし、2人で合ってるっぽいか?
第10世が恵祐で第11世が空盛となれば、生嶋氏の指摘どおり、恵祐→空盛で院主が交代となったことは事実そう。

ただし、空盛は入滅時(元和三年=1617年)で57歳(数えだと思うので実際には56歳?)と書いてあるけど、ここから逆算すると生年は1561年。
でも東寺の学芸員・新見氏の書籍や図録だとはっきりと1554年生まれと出てきてる・・・新見氏は生年が明記されている別の史料を見てるってことなんだろうな?
しかし紙背の方の情報が間違っているんだとしたら、1歳2歳とかじゃなく7歳違うしズレが大きすぎないか(笑)


また以前、空盛のことを東寺百合文書WEBで検索すると1件しかヒットしなかったと書きました。
が、その後に空盛の前には真盛という名であったことを知ったので、改めて検索しなおしてみたところ・・・
ヒット数が増えたww
しかも、恵祐と一緒に出てくるのばっかりだったww

そうかぁ、やっぱりけっこう一緒に行動していることが多かったんだなこの叔父甥?
年が近いのならば(恵祐が1552年、空盛が1554年生まれならば)、同年代の血縁者と和気藹々と仕事していた感じ?
もしも空盛の生年が1561年だとしたら9歳差あるし、特に真盛と名乗っていた空盛がまだ若い頃には、叔父さんがけっこう面倒を見ていた感じだったり?

空盛が観智院の院主を弟子に譲ってまで宝厳院の再興に尽くしたのは、恵祐との思い出がつまった場所を大切にしたいとかいう理由もあったんかなぁ?だとしたらエモい。
(なんでも親戚間のエモさに持って行こうとする細川家オタク)