細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

東寺の空盛は三淵藤英の・・・(後編)


前回の記事で「東寺の僧・空盛という人物が細川藤孝や吉田家・舟橋家の縁者らしい」ということを知り、がさがさインターネットや色んな史料を漁りました。

で、ついに・・・!ついに・・・・!
決定的な情報が書かれている書籍に出会った・・・・・!いよいよ後編です!
この本を最初に見ていれば前回のようなぐだぐだ記事は生まれなかったのに!笑

東寺宝物の成立過程の研究, 新見康子, 思文閣出版, 2008年2月

上記書籍の第1部第1章と第4章にちらっと空盛のことが触れられている。
『宋版一切経』という経典について、慶長十六年(1611年)~元和二年(1616年)にかけて空盛が主となって、箱を作り変えて、経蔵(今は一切経蔵と呼ばれている)を西院内に建立したとのこと。
経蔵棟札には”一切経蔵者伝聞空盛僧正建立”と書かれているらしい。
『宋版一切経』の箱底裏墨書名には、寄進者として徳川家康豊臣秀頼の名も見えるらしいが、一番多いのは空盛の名で、それだけ彼がこの箱の寄進に注力していたことがわかるんだそうな。
大事な経典のために箱を作り変えて、新たに蔵をつくる・・・文系の血が騒いでるとしたら藤孝さんの近親者っぽいな?笑

で、で、で。
問題は注記なんです、注記!
突然もたらされる決定的情報・・・・!それは・・・・

空盛(一五五四~一六一七・五・二四)は、三淵藤英の息である。

はぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?
藤英の息子ぉぉぉぉぉ!!!?????

と、いうわけで、いきなり、ズバッと答えが現れましたwwww
うぇぇぇ、マジかぁ!藤英の息子ぉぉ!!??
それは想定してなかったぁぁ!
でもそうか、藤孝さんにも吉田家とも清原/舟橋家とも縁があるってなれば、三淵家でも全然おかしくないよな、うん。

空盛について、さらに注記から引用しておきます。

空盛は最初、観智院第九世で、中絶していた東寺の子院の再興に着手した。法厳院を再興するために、観智院を弟子の亮盛に譲り、法厳院空盛となった。さらに文禄五年(一五九六)の地震で、倒壊した法厳院を復興することに力を注ぎ、法厳院中興の祖と呼ばれた。

ほんほん。
確かに当時の人たちの日記などを調べてみると、「法厳院」の方が空盛の代名詞っぽい感じはする。
(ちなみに弟子の観智院第10世・亮盛は、国宝に指定されている観智院の客殿を再建したりした人物だと本家のHPにも紹介されていた。)

空盛という存在を知るきっかけとなった生嶋氏の論文では
「文禄三年(1594年)に藤孝さんの異母弟である宝厳院・恵祐が亡くなった後、空盛が観智院主から宝厳院主に移っている。」
という内容が注記に載っていた。
空盛がいつ観智院から法厳院に移ったのか詳細はわからんけど、前編でもあげたとおり天正十七年には「法厳院空盛」という署名をしていたりするっぽいから、少なくとも院主交代前から法厳院には関わっていた感じ?

空盛が藤英の息子であるということは、恵祐は空盛にとっては年の近い叔父なわけで、叔父→甥への血縁での移譲とすると話は通じやすい?


注記の最後には「空盛についてはこっちを読め」と提示されている図録↓があった。

東寺観智院の歴史と美術, 東寺宝物館, 2003

で、こちらも確認した(調べものモードにエンジンがかかってたので爆速行動)
おそらく著者(というか編者?)は同じく新見康子氏のようで、この方は東寺の学芸員さん。
序説の観智院の歴代院主を紹介するところで早速、

こうして衰退しつつあった観智院を復興したのが第九世空盛である。空盛は、はじめ真盛と称し、永禄九年(一五六六)、十八道加行作法を栄盛から受けているのでこの頃、栄盛の弟子となったものと思われる。

と出てきて、さらっと最初は真盛という名であったことと、十二歳の時には既に東寺にいることがわかる。

で「荒廃していた観智院の造営を行い、立て直しに着手」した空盛に関わる興味深い文書として挙げられているのが

稲荷参銭之事、
為造営、当院江
□進申候、惣寺以
□□稲荷大明神
□有興立候、恐ゝ
謹言、
元亀弐      三渕大和守
九月廿八日 藤英(花押)
         同弥四郎
      秋豪(花押)
東寺
観智院真盛

ということで、この当時に伏見周辺を勢力範囲としていた藤英が息子のために造営料を取りはかっていることがわかる・・・らしい!!!
(当該文書の画像も載っているのですが、藤英さんの花押、藤孝さんと似てません・・・!?”藤”の字からの展開だから似通うのか!?!?)

ちなみにこちらの図録にも、空盛が三淵藤英の息子であると明記された文書がなんなのかということは提示がない。
東寺の記録では、はっきりわかるものがあるって感じなのかな。生年や死亡日も明確だしな。

衰退していた観智院を再興したり、地震により大きな被害を受けた東寺の復興に尽力したり、宋版一切経の箱の寄進や蔵の建立を行うなどした人であるとのこと。なんかパワー強めの文系人って感じw
図録には肖像画も載っていたのですが、どこか藤英と似たところもあるのかなぁなんて思いつつ眺めています。
幽斎さんと似ては、いない、かな?


東福寺の玉蔵主の問題を、空盛と英甫永雄が対応していたのも、従兄弟同士とわかると途端に血族仲良しかよ!と言いたくなる。
両名ともに藤孝さんの甥(兄と姉の息子たち)ですし、なんかこう、藤孝ネットワークというか細川家ネットワーク(というよりここでは三淵家ネットワークですけども)の強さを感じる。

ということで、新たに知った人物のご紹介でした!