細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

中院通勝のスキャンダル相手は・・・?


津々堂さんのブログで気になるコメントを見つけたのでメモ。

こちらの記事のコメントで以下のようなことが書かれている。

中院通勝は船橋教賢(うろ覚えです)の娘、伊予局と密通していたのが発覚して、遂電したそうです(兼見卿記)


!?!?!?


舟橋家の「伊予局」というと、それはアレではないか?
清原枝賢の娘、清原いと、つまり、清原マリア、壽光院
のことではないか・・・!?!?

この後のコメントでは船橋教賢の娘ではなく、船橋教重の娘だとされていますが(教重が誰かわからぬ←)
ぬぇ~~?日向志保氏の論文で「いと」は伊予局という名前で宮中に仕えていたって出てきたもんな!?!?

えーーーー??中院通勝とスキャンダルをしたのが清原いとなの・・・??
天正8年(1580年)のことらしく、通勝は24歳。
いとは、勝手に天文十四年(1545年)~十八年(1549年)くらいの生まれではないかなぁと考えているのだけど、そうすると35~39歳くらい?
ちょい年が離れすぎてるか・・・?

しかしこのスキャンダル後に丹後の幽斎さんのところに通勝がお世話になっていることを考えると、既に細川・清原界隈のネットワークに組み込まれていたんだろうし、宮中にいる清原家の縁者とつながりがあってもおかしくはない?


いや、待て待て。

誰かわからぬ人物と書きましたが、船橋教重をちょっと調べてみたところこちらがヒット!

『言経卿記』天正 4 年(1576)1 月 6 日の条に、舟橋教重が正五位下に昇進した記録と、教重女の「伊与殿」の名が見える。清原(船橋)教重は、清原(船橋)秀賢の大叔父である。

をを!?字は違うけど、バッチリ書いてありますね「伊与殿」が!?笑

教重が秀賢の大叔父ということは、教重は清原枝賢の弟ってことでいいんかな?
その娘となると、枝賢の娘である清原いととは従姉妹同士ってことか?
「伊予局」と「伊与殿」がイコールでいいんか??

「清原家系図」↓でも、清原宣賢の嫡男である業賢の息子として「兵庫頭 教重」と出てきますね。やはり枝賢の弟でよさそう。
清原家系図 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ


東京大学史料編纂所の古記録テキストデータベースで「教重」と検索すると、確かに「伊与殿(舟橋教重女)」という人物が出てきますねぇ。


ここで!
日向志保氏の「ガラシャ改宗後の清原マリアについて」を確認したところ、清原いと=伊予局の出仕期間は<元亀二年(1571年)10月26日~天正元年(1573年)12月10日以前>と考えられると論じられていた~!笑
先にちゃんと確認しとけよ自分~!笑


なので、天正8年の事件の際には既に清原いと=伊予局は既に宮中にはいないっぽいし、いとがいなくなった後、新たに「伊与殿」として舟橋教重の娘が宮中に出仕していた感じかな?
同じ清原家筋の娘ですし、似たような名前が付けられたのだろうか?


このHPの情報を見てみると、「言経卿記」の記事で伊与殿(舟橋教重女)と中院通勝が同じ儀式に出席していることがわかる。
ふむ、この2人クロですな(笑)


しかしいずれにしても、通勝は幽斎さんの縁者(幽斎と教重とは従兄弟になる。幽斎母と教重父がきょうだい。幽斎さんから見て伊与殿は従兄弟の娘)と密通していたんか~~!
そして幽斎さんの養女(一色家の娘らしい?)を正室に迎えているんだっけ???
どんだけ幽斎さん周りで女を捕まえとるんや中院通勝www
これは通勝自身の意思なのか、幽斎さんの思惑も働いているのか・・・どっちなんだろ・・・

謎は残りますが、とりあえずここで終わります(笑)