細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川家と禅宗文化③ / 論文紹介


第1弾第2弾から引き続き、↓の論文についてご紹介。

高浜州賀子, 細川幽斎・三斎・忠利をめぐる禅宗文化(1), 研究紀要(熊本県立美術館研究紀要), 1, 5-31, 1987

今回でラストかな。

英甫永雄

英甫は幽斎さんの姉・宮川尼の息子。父は若狭武田家の武田宮内少輔信重とされているが、異説あり。信高という名の人だったとか?
少なくとも、”蒲澗”という法名ではあった父も、建仁寺で詩文を学んだことがあったらしい。

英甫については↓の記事をはじめ、なんだかんだけっこう話題にしている当ブログです(笑)
英甫永雄について調べてみた / 論文紹介3本 - 細き川に溺れたい

『羽弓集』には若狭国遠敷郡宮川保の智光院に、宮川尼の娘で栄春院なる尼がおり、天正八年雄長老の父の二十五回忌の法会を修しており、母宮川尼の称呼もこの地名より出たろうとされている。

『羽弓集』というのは、英甫の語録のこと。
宮川尼は晩年、英甫が住持する建仁寺十如院の隣にあった如是院にいて、細川家の経済的援助を受けていたのだそうな。
(前に『慶長日件録』の記事でぎゃぁぎゃぁ言ってた智光院について、さらっと実在の寺院として登場し、かつ宮川尼との関係ががっつり出ましたねww)


で、もちろん英甫と母方の叔父である幽斎さんとも関係性は太い。史料には、天正八年(1580)に藤孝さんが丹後に国替えになり城を普請した際、落成に詠んだ詩が『倒痾集』に出てくる。

詩文を通して幽斎と深い親交があったことを証する例は枚挙に暇ないほどである。

幽斎の親族としては最も文学的才能をもっていたと思われる英甫であるから

とさえ書かれているww


「近世狂歌の祖」としての地位はやはり、英甫を語るうえでは外せない。
『醒睡笑』にも英甫の狂歌がいくつもとられているし、松永貞徳『戴恩記』には近衛伸輔(信尹)が薩摩坊ノ津に配流される際に詠った狂歌が出てきたり、海北友松の「瀟湘八景図」のうち「瀟湘夜雨図」には英甫の讃がかかれていたりする。丹後時代の中院道勝とも文学的交流が多い。

英甫の活動を支えていたのは、いうまでもなく細川家による後援であった。諸山・十刹・五山・南禅寺と出世するための官資は、若狭武田家が没落した後、細川幽斎・忠興父子によってまかなわれたであろう。


(自分に似て?)かなり文学的素養・才能が高かった英甫のこと、幽斎さんは本当にかわいがっていたのだろうなぁ。

(ところで本論文では、英甫永雄の読み方が「えいほえいゆう」になっていた・・・・・「ようゆう」だと思うのですけど・・・・←ことあるごとに主張する)

幽斎さんと禅宗文化

論文の小結から、ちょっと長めに引用させてください。

幽斎の著書などからみて、幽斎が禅宗の教義そのものに強い興味を示した形跡は無い。しかし血縁や姻籍から多くの禅僧を出し、彼らとの親密な交流をもっていた。例えば桃山文壇の中心的存在であった幽斎は、彼ら禅僧と歌会、古典講義、連歌、和漢連句と時に応じて会している。詩文に長じていなければ重きをなすことが難しかった当時の五山において、玉甫紹琮・梅印元冲・雲岳霊圭とすぐれた禅僧を輩出していることは、幽斎の存在をぬきに考えられないことであろう。とりわけ英甫永雄という文学史上重要な人物を育てたことは特筆に値しよう。

っはぁぁぁぁぁぁぁぁ

そうですよね、やっぱり。
幽斎さんのこの、自分は芯からその教義に帰依しているわけではなさそうなのに、当時における禅文化や禅僧の重要性は理解していて、親族や近しい人物をしっかりちゃっかり支援できるところが”らしい”なと。
本当に個性であり魅力であり、ずるさでもあるなぁと。現実世界への冷徹な眼差しと、周囲への温かい姿勢と。両方が高度なバランスで共存してる男。好き。

(そもそも、幽斎さんが何かしら宗教に帰依しているとか、信心深いタイプだとは思えない。肯定するでもなく否定するでもなく。自分が没頭しないだけで、他人が没頭しても止めたりはしなさそう。凪いだ視線で眺めているんだ、人間の心の動きとは何かを。好き。)


また、今回取り上げた禅僧たちと関りが深い寺に長谷川等伯の作品が残っていることなどからも、大徳寺高桐院や南禅寺天授庵を細川家が支えたことで、桃山美術の遺産が現在まで受け継がれているともいえる。
文学史上において、中世~近世への橋渡しをしたことは有名な幽斎さんですが、それ以外にも違う分野でこういうことをやっているんですよねぇ。
しかもたぶん、この人はそれを自覚的にやっていたと思われる。全くどんなチートだよ・・・・好き


気になったこと(というか興奮したこと)・番外編

今回、個人的に(勝手に)盛り上がったのは、細川幽斎と松井康之の肖像画の讃について
第2弾で、幽斎さん肖像画の讃は、光寿院(麝香)→雲岳霊圭→以心崇伝へ依頼されたと書きました。
で、実は松井康之の肖像画の讃も、息子の松井興長からの依頼で、崇伝が書いているのだそうだ・・・・・

コレ、コレ、さ・・・・・
幽斎さんのことをずーーーーーっと主君として仰ぎ続けた亡き父が喜ぶと思って、興長が気を遣って同じ禅僧に讃を依頼したのだろうかとか妄想して・・・・・
勝手に泣いた・・・・(また泣くのか)

いや、もちろん当時の崇伝の政治的影響力の大きさを物語るものでもあると思うし、そんな感傷的な理由じゃないだろって言われたら、それまでなんですけども・・・
でも、なんか、こういう繋がりを幽斎⇔康之に見いだせると、泣けません????


はい。
ということで、全3回にわたって一つの論文についてご紹介してきました(長い)が、今回でお終いです!
3つとも目を通してくださる方がたくさんいるとは到底思えませんが(笑)
とりあえず、この論文の「その2」の存在をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください・・・切に!
忠興・忠利と禅僧たちとの関わりも知りたいよーーー!!!