細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川家と禅宗文化① / 論文紹介


ここ1〜2年ほど、なぜかずっと細川家周辺の禅僧への興味が尽きていない私ですが(笑)
なんと!こんな↓論文があることを知りまして、びっくり仰天!!!

高浜州賀子, 細川幽斎・三斎・忠利をめぐる禅宗文化(1), 研究紀要(熊本県立美術館研究紀要), 1, 5-31, 1987

こんなドンピシャなタイトルの論文があるんだったら、もっと早く知りたかったよぉぉ!!!笑

あ、ちなみに、本論文では主に「細川幽斎をめぐる禅宗文化」がとりあげられており、忠興以降は次稿に論じるとされているのですけど・・・
論文あるある(?)かもですが、”その2”が発表されているかはわからない・・・(´;ω;`)ウゥゥ
そもそも熊本県立美術館のHP等でも、この紀要の詳細がわからないからさ・・・頼むから各号の目次とかだけでもHPで公表してくれないだろうか・・・・(できれば本文のPDFもアップしてほしいですけどゴニョゴニョ)

こちらの論文は文献複写でやっとこ手に入れました。
で、けっこうボリューミーなので、幽斎さんや細川家に近しい部分のみ、数回に分けてご紹介したいなと思います!

建仁寺永源庵

まず前提として。
この論文はけっこう古いし、2009年の山田康弘氏の論文が発表される前ってこともあって、幽斎さんが養子に入ったのは和泉細川家の細川元常ってことで論が進められているのですよね。
そのため、建仁寺永源庵のことでかなり紙幅を使っている(苦笑)
このあたりのこと、今となってはちょっと微妙な路線の話なので、本記事ではがつっと省略させていただきます!w

ただし、永源庵の第七世の”玉峯永宋”という人物は、細川元常の実の息子の一人で、どうにも藤孝さんともつながりあるらしい?
『永源師檀紀年録』の元亀四年(1573年)の項には、<熊千代くん(=忠興幼名)が伯父である玉峯に「出家したい」って願ったけど、うんにゃらかんにゃらで、最終的に義秋が「細川輝経」の養子にせよってんでそうなった>って話が載っているらしい・・・
確かに忠興は輝経の養子になって奥州細川家を継いでいるし、細川元常三淵晴員は兄弟なので、藤孝が元常の養子に入ってない説をとったとしても、玉峯と親類ではある・・・
うーーーん、ややこしい話ですねww
という感じなるので、永源庵のことはこれくらいにして・・・ww

玉甫紹琮と梅印元冲

三淵家出身の二人。藤孝/幽斎さんの弟ですね。以前も記事を書きました↓
玉甫紹琮について調べてみた / 論文紹介 - 細き川に溺れたい
梅印元冲について調べてみた / 論文紹介 - 細き川に溺れたい


まずは玉甫から。
『龍宝山大徳寺誌』によると、玉甫は幽斎さんの同母弟であるとのこと。
『龍寶山志』という大徳寺の記録によると、玉甫ははじめ東福寺の第一座に登って”良室”と号していたらしい。へぇ!
他の記録には東福寺と玉甫のつながりは見られないらしいけど、玉甫の後に総見院を継いだ賢谷宗良が東福寺の出身であったらしく、なんらかつながりはあっただろうとのこと。
その他、田辺城籠城の際には後陽成天皇から幽斎さんの下城の使者となるよう言われたけど、細川家に関係する者として「討死然るべし」として、断ったこととか。玉甫さんさすがっす。
長谷川等伯のこととか、小倉にて行われた幽斎さんの葬儀では導師を玉甫が勤めたことなどが取り上げられている。
玉甫は古溪宗陳の法嗣であり、その後を継いで総見院住持となるわけですが、寂するまで高桐院と総見院住持を兼帯していたらしい。
で、玉甫亡き後の総見院の後継住持に関して問題が起こったのだが、玉甫の遺言を重視して弟子の賢谷に継がせたいって色々と働きかけたのは忠興らしい。
とりなしは以心崇伝に頼んだりしてなんとか和解に持ち込み、総見院は賢谷の住持で落ち着いた。大徳寺における忠興の影響力をわかる例とのこと。

また、大徳寺が戦国末期~近世初期に一躍表舞台に躍り出た中で、
◆幽斎さんの弟の玉甫が、五山の東福寺から大徳寺古溪宗陳のもとへ移ってきたこと(原因はわかっていない)
◆玉甫寂後の総見院後継問題で、忠興がかなり奔走したこと
これらの事柄は、細川家にとって大徳寺が重要であることを感じさせると指摘されている。

次に、梅印。
こちらは、特に幽斎さんと同母だという史料については記載なし。勝手に同母だと思っていたが、異母なのかしらん?
梅印の師である梅谷元保は、若くして亡くなった幽斎・麝香夫妻の子・蓮丸の肖像に讃を書いている。文筆僧として優れていたらしい。
で、梅印も師に劣らぬ詩文の才能があった。やはり当初は”海印”と称していたもよう。
南禅寺入院の時の法語に関して、西笑承兌に添削を乞うたらしいのだが、縁者である雲岳霊圭も梅印の四六文を評したとのこと。
このことを考えると、雲岳の方が梅印より年上ってことかな?

永青文庫には語心院にあてた”細川玄旨書状(十月二日付)”が残っていて、

年記がないが、何か普請の事があったようで、竹木・大工などの配慮を幽斎から梅印あて申し送っている。檀越として幽斎がなにかと梅印を援助したことを伺わせる書状である。若くして南禅寺に出世し、秀才の誉高かった梅印は、幽斎に先立って惜しくも寂したわけである。

と論じられており・・・・・
さらには

梅印の語録は残念なことに残されていない。禅僧としてはこれからという時期に亡くなったためであろう。幽斎の兄弟のなかでも特に詩文に勝れていただけに惜しまれよう。

とも書かれており・・・・・
ううううぅぅぅぅ・・・・・(嗚咽)
25歳も年の離れた才気ある弟を、何くれとなく面倒見てあげていて、可愛がっていたのに、先立たれてしまった幽斎さんの心情を思うと・・・・・私が泣く・・・・(お前が泣くのかよ)

しかし、幽斎さんとかぁなり近しい弟が、ともに当時有力な禅寺で活躍していたことは、本当に細川家にとっても重要だったでしょうね。
梅印が兄たちより早逝してしまったのは残念ですが、まぁ直接血のつながりはなくとも、南禅寺には玄圃や雲岳という関係者もいましたからね。

第1弾はここまで。次回へ続く。。。