細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

清原マリア(とちょっとだけ?細川マリア) / 論文紹介


以前「沼田麝香は本当に細川マリアだったのか?」みたいな記事を書きました。
その際にちょこっとだけ「清原マリアと混同してるんじゃね?」という世迷言を言っていたのですが、今回の記事では清原マリアについてまとめておこうと思います。

今回の件にもちょいと関わるので「壽光院」と「寿光院」の記事もよければご参照ください~
前の記事で「今度紹介したい論文」っつってたのが、今回の記事のことです。

清原いと=清原マリア=壽光院

で、以下の論文がとても興味深い。

日向志保, ガラシャ改宗後の清原マリアについて, 織豊期研究, 13, 53-66, 2011年10月

日向志保, 清原マリアと細川家, 戦国史研究,77, 26-27, 2019年2月

1本目の論文

「清原マリア=清原いと」のことなのだが、当初彼女は宮廷に「伊与局」という名で仕えており、理由あって出仕できない時には三淵藤英が詫びの品を献上していたりするらしい。へぇ~~!!

藤英の伯母に室町殿女房清光院佐子局という人物(三淵晴員の姉)がいるから、そのあたりのつながりかなぁ?


いとは、創作物?などではガラシャの死に際まで付き従ったみたいなエピソードが散見されるけど、一次資料ではそういう事実は確認できない。

しかし「兼見卿記」には彼女がよく出て来るらしい~!ガラシャ死後も慶長八年四月までは「兼見卿記」に名が見えるそう。さすが我らが兼見!
また忠興⇔忠利の書簡のやりとりの中で、忠利から「昔御所に仕えていて、いとという名前で、今は壽光院という人」がいることが説明されているらしい~!
以上のことと、「慶長日件録」の記事から検討したところ、前者の論文では次のことが指摘されている。

  • 「壽光院」は清原枝賢の娘であること
  • 忠利の説明から考えても、その人物は清原いとであること
  • 慶長15年に得度して「壽光院」と名乗ったこと
  • 上記時期までにはキリスト教を棄教していたらしいこと

また、論文の末尾に掲載されている系図の情報だと、清原いとは「勧修寺晴豊側カ」と載っていた。

2本目の論文

1本目の論文では曖昧だった「勧修寺晴豊側カ」の部分をこっちの論文でもう少し掘り下げている。

『勧修寺家譜』では、勧修寺晴豊の子として「女子 佐久間備前守安政室」がいて、その母を「枝賢娘」と記している。
で、忠利の書状(細川忠利文書三○ 元和六年<一六二○>八月七日書状案、『細川家史料』八)にて、安政夫人が「御所被召使候いとゝ申人ー今の名ハ寿光院と申候、の子むすめニて御座候」という情報が書かれていることから、安政夫人の母=清原枝賢の娘=清原いと、であるとわかるらしい。
清水克行氏の「山科言継をめぐる三人の女性ー実母・愛人・長女」という論文で、禁裏女房が公家と愛人関係になり子供をなした後に地方大名に仕えるという事例があることが指摘されており、清原いとと勧修寺晴豊もこの事例に当てはまるのでは?とのこと。

ふむふむ、いとは晴豊に嫁いではいないが、子はなしていた。
でも、結局いとが六角義賢に嫁いだかどうかは日向氏の論文ではわからず。
ここが判明すれば、「幽斎さんときょうだいのように育ち、六角氏に嫁いだ枝賢の娘の寿光院」が清原いとだと同定できるのにねぇ・・・


マリアなる人物とは・・・

ということで、清原いとがいつまで「マリア」の名前を使用?していたのかわからないけど、少なくとも清原/舟橋家や細川家、吉田家界隈にいて、兼見や幽斎さんの近くにいた女性が一時期「マリア」という受洗名を持っていたことは間違いなさそう。

で、清原いとは細川家に仕えて外交業務的なことをしていた。


この時期の女性がどれくらい外出できていたのかがよくわからないが、ある程度地位のある武家正室とかなら、たぶん今ほど軽々出かけたり多くの人と交流はできなかったでしょう。
そう考えると、親戚関係とか詳しくない第三者から見て、特に女性の情報が錯綜することもあったかも?

清原いとの出生年ははっきりとはわからないが、兄の国賢が天文十三年生まれであるため、天文十四年以降だろうと1本目の論文では触れられている。
麝香さんは天文十三年の生まれで、幽斎さんとちょうど10歳差。
いと=壽光院と幽斎さんがきょうだいのように育ったと考えた場合、さすがに20歳も離れてなさそうだし、15歳程度までと考えると天文十四年~十八年くらい?
であれば、いとと麝香さんは1~5歳差くらいでほぼ同年代?
2本目の論文では、禁裏で仕えていた時のことや、縁戚のネットワークを持っていたいとは、細川家の外交の一端を担っていたことが指摘されている。
ほらほら、ますます混同しちゃう要素があるのでは!?笑

幽斎さんと親しい「マリア」と呼ばれてた人物がいる、幽斎さんの嫡男・忠興の正室ガラシャ、ということはこのマリアは忠興の母なのでは?みたいな論争で、宣教師たちには「ドンナ・マリア」が越中殿の母、ということになったり、した可能性もあったりなかったり!?笑
いや、もちろん宣教師の中には清原いと=清原マリアと直接応対した人もいただろうと思うんですが、その人物の詳しい素性までわからなかったのかも?
明智玉に親しい人物で、年も近くて・・・とかなったら、いとと麝香を混同したという可能性も・・・ある、かも!?!?笑

うーーん、色んな「もしも」や「妄想」が入りすぎてて、自分で書いてても無理があるとは思うんだけどw
でも麝香さんがキリスト教に帰依していたと考えるよりは、こっちの方がありそうでは?と思ったり。

というか、幽斎さんの姉で佐々木越中守に嫁いだ「壽光院」と、清原枝賢の娘で六角義賢に嫁いだ「寿光院」が同一人物なのか、はたまた枝賢の娘で勧修寺晴豊との間に子をなした清原いとと、それらの人物は同一なのか!?っていう問題も内在してて、わかりづらい話になってしまいました(苦笑)
昔の人って、官命があったり名前が途中で変わっていたり法号が出てきたり、誰が誰と同定できるのか素人にはさっぱり・・・なのだが、女性はよりいっそう当時の一次史料で確認するのも難しいよなぁと。