細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川藤孝の異母弟・宝厳院恵祐とは・・・?


ちょこちょこ話題にしている以下の論文に、今まで聞いたこともなかった細川藤孝の異母弟のことが載っていた・・・・!!!
その名は、東寺の僧・宝厳院恵祐
はぁ!?!?あなたは誰!?!?笑

生嶋 輝美, 家臣団形成期の細川藤孝と「東寺の宗及」, 年報中世史研究, (48), 99-129, 2023


ちなみに論文の中ではなく、末尾の引用注に出てきたんですよ。
マジで突然現れたぜ・・・・?

天文二十一年(1552年)生まれとのことで、玉甫紹琮(天文十五年=1546年生まれ)と梅印元冲(永禄二年=1559年生まれ)の間にもう一人いたってこと・・・?!?!?
いや年齢差としては確かに6~7歳ずつで良い感じに刻んでるけど!

ネットで検索したら、以下のページがヒットした。
『兼見卿記』を読む -吉田兼見と細川幽斎- - 百瀬ちどりの楓宸百景

たとえば文禄3年、幽斎が兼見のもとを訪れ、腹違いの弟(東寺法嚴院恵祐)の死を語る中で、「幽斎は出生より細川刑部(晴広)の養子となった」という記述があります(文禄3年3月13日条)。

最初に挙げた論文でも兼見卿記の同じ記事が出てきたし、兼見が藤孝から聞いてこのように書いてるってことは、まぁリアルに異母弟ってことですね・・・!?

自分でも「兼見卿記 第五」文禄三年三月の該当記事を確認してみたので、書き起こしておく。

             (×舎弟)〔寶〕
十三日、壬辰、幽齋來、今度東寺法嚴院、幽齋舎弟也、別服〔腹〕、死去、
             (惠祐)
        (晴廣)     〔姓〕
幽齋自出生細川刑部少輔爲養子、然間本性方二親、傍親、輕服一切不着服也、
         然
此間勿論之由被申也 間無服分也、侍従女房衆不可有着服歟、
於予方夕食、及暮歸京、

確かに別腹の弟とありますな・・・幽斎さん本人から兼見が聞いて書いた記事ですから、信頼性はかなりありますよね。
「自分は生まれてすぐに養子に出たので、生家たる三淵の親戚へは軽服(=遠縁の者の死去による、軽い服喪のことか?)は一切しない」と先日幽斎さんが服喪はしないと言っていたから、伊也(幽斎さん娘、兼見の息子・兼治の妻)も服喪させないべきか?みたいな感じでしょうか?

うーーーーん。。。惠祐に対してと、同じく幽斎さんの弟である玉甫や梅印に対する姿勢とは、なんというか、全然違いますよね?
身内には甘いというのとは違うけど、打算も含めてきちんと必要な縁者とは関係性を作るタイプのような気がしていたんですが、こういう対応をする幽斎さんってとても意外でした。
別腹ってのが問題なんか?玉甫や梅印はなんとなく幽斎さんと同腹かなぁって気がしているのですが、母親違いの影響があるのだろうか・・・??むしろ、玉甫と梅印が同腹である証左になりうる???
(ってか、ここ普通に「細川刑部少輔の養子」にいったと書いてますね!?笑
「晴廣」と注記があるのは例の山田康弘氏論文の発表後に、改定されたんかな?)

大日本史料 第10巻之4」169ページに以下のような内容も載ってた。

前伊賀守三淵晴員卒ス、
〔東寺光明講過去帳〕○山城
三淵伊賀入道宗薰
 (裏書)永禄十三三月朔日七十一歳入滅惠祐父、

ばーーっちり「惠祐父」と載ってますね!?笑
やっぱり三淵晴員の息子であるってのは確実なんだな。

ちなみに上記の後には〔縷氷集〕の晴員の記事も載っているのだが、そこには「子九人、内三人出家、女二人、一休派、歸依念佛、」とある。
晴員のWikipediaに載っている子どもは8名だし、女子が3名いる・・・ずれているよねぇw
三人出家しているのは、惠祐・玉甫紹琮・梅印元冲とすれば人数は合うかな。
娘が二人というのは。。。宮川尼(智光院)は確実ですよね。残り1名が佐々木越中守室あるいは土御門久脩室のどちらかだけってこと?
あるいはどちらかは、晴員の養女になって嫁いだ感じとかか?
あ、でもそうか、この記事でも取り上げたけど、佐々木越中守に嫁いだとされる女性が、”幽斎さんときょうだいのように育てられた”清原枝賢の娘、だとしたら、この娘は晴員の正式な娘ではないってこともある?
ただ、佐々木越中守側を除くと、「子九人」には一人足りない・・・ぬーーーーん。。。笑

「東寺法嚴院」というのは、先日記事にした「三淵藤英の息子である空盛」が再興させたらしい東寺の子院。
前述の三淵晴員死亡の時の記述を見る限り、惠祐は永禄十三年(1570年)18歳の時には東寺にいる。で、兼見卿記記事より、亡くなった文禄三年(1594年)の時には法厳院の院主っぽい。
空盛は天正十七年(1589年)には「法厳院空盛」という署名があるっぽい。なので、5年くらい二人は一緒に法厳院にいたのかしら??
ちなみに甥・空盛(1554年生まれ)と叔父・惠祐(1552年生まれ)は2歳差。ほぼ同い年。

細川家関係者といえば臨済宗だと思うのですが、惠祐はその系統とは違う。もしかして母親が東寺に関係しているのかしら・・・
藤英の息子である空盛も東寺に入っていることを鑑みると、三淵家の方に東寺関連のつながりがあるんかな?
とはいえ、晴員は「一休派」となっていて、大徳寺関連の宗派のようだしな・・・?(息子でいうと玉甫が大徳寺系統だもんな?)

ところで、宝厳院という名前で現在残っているのは、創建時は上京区、今は嵐山あたりにある臨済宗天龍寺派?)の寺院だそう。こっちだったら臨済宗だしよっぽど細川家関係者っぽいのに!笑


これまで津々堂さんブログで紹介されている幽斎さん兄弟の系図とかでも見たことのない恵祐。
参照:■三淵藤英と一族 - 津々堂のたわごと日録
(念のため、ブログのキーワード検索もさせてもらったが出てこず)
うーーーーーん、三淵家の系図とかにも出てこないってことなのか???
かなり小さい頃に養子に出されたとか、そもそも、晴員と婚姻関係にない女性から生まれて母子ともに外で暮らしていたとか、そういう感じとか????

真宗人名辞典」に出てこないかなぁって調べてみたが、別の恵祐さんが出てきたよね(苦笑)
まぁ、そのおかげでどうやら「えゆう」という読み方になるみたいってことはわかりました!ww


というか昔、梅印元冲のブログ記事に「何を見てそう思ったか忘れたが、梅印は1552年生まれだと思ってた」みたいなことを書いていたんです、私。
え・・・・?1552年だと恵祐が生まれた年だな・・・・?
おーーーーい、わたしはいったい何の史料を見て「1552年」だと考えたんだ!?笑
その史料から連想できたのは実は梅印ではなく、恵祐だったのではないのーーーー??笑
ちゃんと記録しておけよ自分ーーーーーー!!!笑

なんか腑に落ちないままですが、終わります(笑)