細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

細川家と禅宗文化② / 論文紹介


第1弾から引き続き、↓の論文についてご紹介。

高浜州賀子, 細川幽斎・三斎・忠利をめぐる禅宗文化(1), 研究紀要(熊本県立美術館研究紀要), 1, 5-31, 1987

玄圃霊三と雲岳霊圭

さて今回はこの二人。細川家の直接の血縁者ではないですが、筆頭家老松井家の関係者と、幽斎室の麝香さんの関係者。
玄圃については過去記事も参照ください↓
玄圃霊三について調べてみた / かるく論文紹介あり - 細き川に溺れたい

まず玄圃。
父は荒川治部大輔澄宣。姉が松井正之(初名は広之)に嫁いで松井康之を産むので、康之の叔父にあたる。
松井氏も代々足利将軍家に仕えていた家ですが、康之が細川藤孝と行動をともにするようになり、客分として遇されるようになった。そしておしもおされぬ、近世細川家の筆頭家老家に。
『聴松院由緒書』によると、康之は永禄の変のとき、ちょうど玄圃と伊勢参りをしていて、無事だった。この時より、玄圃と師檀の縁を結んだとのこと。
で、玄圃は康之に招かれて松井家の菩提寺の開山となってたりして、康之を筆頭に、もちろん松井家との縁は深い。

玄圃と藤孝さんとの関係がわかる比較的早い時期の史料は、元亀二年(1571)1月29日に、大覚寺にて行われた和漢連句に連衆としてともに名を連ねているもの。

この後も幽斎と連句興行に共に参じている例がしばしばあり、詩文を通じても昵懇の間柄であった。

政治的に名が知られるのは、秀吉の朝鮮出兵の時のこと。
有節瑞保に秀吉から「五山の中でも才能あるええやつを選べ(意訳)」という命が下って、玄圃と英甫の二名を推薦したところ、玄圃に決まったらしい。うーーん、どっちを選んでも細川家関係者ですなww

そんな玄圃の弟子が、雲岳霊圭。
幽斎さんの正室である沼田麝香/光寿院の甥です。麝香さんの姉妹の一人が、雲岳の母。
で、麝香さんとも雲岳母とも姉妹である女性(つまり沼田光兼の娘の一人)が、荒川澄宣の息子である晴宣に嫁いでいる。晴宣はつまり、玄圃の兄。
そういう縁から、玄圃ともつながっているわけですねぇ。

玄圃と雲岳いずれも足利将軍家の旧家臣団のうち、細川藤孝を中心とするグループの出身である。幽斎、忠興が近世大名に転換していく過程で、姻籍のゆかりをもって細川家の後援を受け五山に重きをなした。

雲岳といえば、南禅寺天授庵ですね。玄圃が

慶長の初め南禅寺中の耆宿の議により、廃絶の危機にあった天授庵の再興を依頼された。玄圃は法嗣雲岳霊圭が幽斎の室光寿院の俗の甥になる縁により、雲岳を天授庵主となし、建塔のことを幽斎に謀る。幽斎は慶長七年(一六〇二)に天授庵を建立し、これから細川家と天授庵の関係が始まった。

ってことで、もちろん幽斎麝香夫妻との関係も深い。
幽斎さんが亡くなった際、京都と小倉に分骨したのだけど、忠興一行が小倉に到着したときに御骨を持っていたのは雲岳らしい・・・へぇ!
麝香さんの意向かなって思ったりしましたね・・・・(自分の血のつながりのある甥に、夫の骨を託す麝香さん・・・・妄想がはかどるってもんです)
天授庵に残されている幽斎さんの肖像画について、以心崇伝が讃を書いているのだけど、これも光寿院(=麝香)→雲岳経由で依頼したものらしい。
徳川の御代になって絶大な影響力を持つようになった崇伝と細川家の間をとりもっていたのは、この雲岳だったのだそうな。
この辺、論文でも”細川家の政治的配慮が働いて”いただろうと指摘されており、そう、やはり禅僧たちが細川家の政治活動において重要な役割を果たしていたってことがよくわかる例の一つかもしれない。


さて第2弾はここまで。まだ続く・・・