細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

永青文庫「戦国最強の家老」展:記念講演会「細川家にお仕えして」に参加してきた


2022年3月21日、永青文庫美術館「戦国最強の家老」展にかかる記念講演会「細川家にお仕えして」に参加してきました。
予約開始後ものの30分ほどで定員になってしまったので、予約できたのは本当にラッキーでした・・・

(展覧会そのものについては、別記事でどうぞ)


前日既に展覧会の方は回ってきたので、当日は開場のちょっと前に美術館によって、観たいところだけつまみ食い(言い方)して、会場の方へ。
数年前に参加した永青文庫さんの講演会は、日本女子大学さんの施設で行われたと記憶していますが、今回は旧細川侯爵邸での開催とのことで!
初めて行きました旧細川侯爵邸!!!!!

今は、和敬塾という民間の男子寮の敷地内にありまして、通常非公開らしいのです。
こんな機会に入らせてもらえてラッキー!
結婚式場として利用されていたり、ドラマの撮影なんかで使用されることもあるそうで、趣のある素敵な建物でした。
(講演会を行った1階ホール以外は立ち入り禁止ってことでしたので、その他の部屋は全くわかりませんが)

講師について

松井家14代(初代を松井康之とした場合)である松井葵之(みちゆき)氏のご講演でした。
葵之氏、現在は松井文庫の理事長かつ八代市立博物館の館長(単年度更新の嘱託館長とご本人談w)をされているので、お名前や写真はかねがね拝見していたのですが、ご本人様の姿は初めてお見掛けしました。
非常に柔らかい雰囲気の男性で、話し言葉もそんな印象。
お生まれは東京だそうですが、中学までは八代で過ごされ、高校は伯父である細川家17代の護貞氏の鎌倉宅に居候していたそう。
大学は完全に一人で下宿して、神奈川の大学に通われていたらしい。
神職をされていたそうで、熊本の水前寺成趣園にある出水神社でも長く宮司をされていた。

実は、本来お父様の祥之(ながゆき)さんが14代目になるはずだったらしいのですが、後を継ぐ前にお祖父様の13代目明之様より早く亡くなったとのことで、葵之氏が14代目になったとのこと。
さらに葵之氏と一緒に家を盛り立てるはずの弟さんも10年以上前に亡くなっているそうで、松井家のことを一人で背負っておられるプレッシャーはいかばかりでしょうか・・・
歴代当主の中でも、特に長生きであった13代明之氏(87歳)と2代興長(80歳)を超えたいとおっしゃっておられたのが印象的でした。

講演内容と感想

さて、講演内容について。
ずらずら気になったところなどを順不同で羅列させていだきます。(内容に問題あれば削除するかも)

家系図

まずは本当に家系図がすごい・・・!(季刊誌の永青文庫No.116に本展覧会のことが掲載されており、系図も載っています)
そもそも、初代康之には細川藤孝正室麝香の姪を養女として嫁がせていて、2代目の興長には細川忠興の娘古保が嫁いでいて、(興長に男児ができなかったので)3代目の時点で細川忠興の息子寄之が養子に入っているんですよ。
最初期から血縁的にはバリバリ細川家と近い!

かつ、ごく最近でも両家にはばんばん血のつながりがあるんですよね。
現在の細川家当主の護熙氏と、松井家当主の葵之氏は、従兄弟同士。
護熙氏にとっては父方の祖父、葵之氏にとっては母方の祖父が、16代細川護立氏になる。
護熙氏のお父様と、葵之氏のお母様がご兄妹ということです。
葵之氏のお母様は、護立氏の三女なのだそう。
めちゃくちゃがっつり親戚なわけですから、葵之氏も幼いころから今は永青文庫美術館になっている、当時の家政所や護立氏や護貞氏のお宅にも訪問されたりしていたそうで、そのあたりの話も興味深かったです。

なお、この両家だけではなく、その他の姻戚関係も本当にすぎょい・・・
庶民には遠い世界だなと改めて感じましたよww

出水神社

葵之氏が長年宮司をお務めになっていた出水神社について。
明治11年の創建だそうですが、発端は細川家の旧臣たちが「甘棠会(かんとうかい、帰宅してから漢字調べましたww)」なる組織をつくって、歴代の主君を祀るために行動されたことだそう。
その中心というか、旗振り役になったのが松井家11代の盈之(みつゆき)と12代の敏之父子だったそうな。
葵之氏の父である祥之氏も神職をされていた?ようですが、お亡くなりになったため、護貞氏から言われて葵之氏が奉仕することに。
(もう細川家と松井家の糸ががんじがらめですなぁ、最高・・・!)

葵之氏が出水神社の歴史を説明されているHPがあったので、ご紹介しておきましょう↓
出水神社の歴史 | 【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。


葵之氏が出水神社におられる時に、印象深かったことアレコレ。

  • 祥之氏と葵之氏のときに、水前寺の水が枯れる事態になったそうで、それぞれに2本ずつ井戸を掘ったこと。
  • 細川家8代目重賢公の没後200年のときに何か記念事業ができないかと考え、護貞公に相談したところ、「綿考輯録」を出版してはどうかというお言葉いただき、出水叢書をつくったこと。
  • 出水神社内の能舞台が不審者の火の不始末で消失してしまった後、なんとか能舞台を復活させたいと思っていたところ、八代にあった松井家の能舞台を移すことになった。完成直前になって、細川家所縁の場所なのに、能舞台の家紋は全て松井家のものだと気づき、九曜紋に変えた方がいいのかを、本来は市→県→国と相談すべきところ、知り合いの文化庁の方に直で相談したところ、「松井家のままで問題ない」というお言葉をいただき、そのまま移築している。
  • 土田將雄先生の御本より、「御祭神細川幽斎公御教歌」として12首を選び、神社内の職員に対して1月に1首提示していた

幽斎さんの教歌を神社職員に読ませていたってすごくないですか!?笑
幽斎さん自身は熊本にはいなかったけれど、彼の教えが今でも熊本に残っているなんて・・・


康之の嫁について

細川藤孝が、康之を自分のそばから離したくなくて、遠縁の娘を自分の養女として康之に嫁がせた」
というエピソードを、現在の松井家ご当主から聞けるなんて、すげぇわ!笑

興長の肖像画

よ~~~く見ると、口が開いていることを、八代市博の林学芸員が見つけた。「何か言ってますね、興長」と。
普通こういう肖像画は口を閉じているものだし、葵之氏自身では全く気付いていなかったが、その指摘を聞いて、諫言を厭わない興長らしい肖像画だと思ったそう。

さらに、この足の開き具合(と頭髪の感じwww)が、13代の明之氏にそっくりなんだそうで!!
すごいwwこんなエピソード、こういう機会にしか聞けないですよねwww貴重すぎるwww

松浜軒について

松井家4代の直之が、母のために作った松浜軒。
現在松井文庫がありますし、お庭の見学もできちゃうし、6月にはお茶会もされています。
天皇陛下行幸に来られて立ち寄ったりされるようなところなんですが、ナニソレすげぇな。
昭和35年に陛下が立ち寄られた際に池をご覧になった場所には、今大きな石が置いてあるそうで。
これは、松井家の菩提寺たる春光寺の橋にもともと使われていた石を、不要になった際に住職から松井家にお譲りしたいと言われて引き受けて、この場に移したのだそう。
毎年11月23日は、「先祖まつり」と称して、歴代当初の御像を一気に並べてご先祖に感謝している。
八代の無形文化財でもある妙見祭が同日に行われることになって、人出も少なくなるかと思っていたが、「松井家の皆さんに挨拶してからじゃないと」って妙見祭に行く前にお参りに来てくれる地元の方もいるとのこと。

護熙氏が県知事時代に、毎年のように自然災害で瓦が飛んだり、雨漏りがひどくて、修理申請を県にあげていた(県の文化財なので)
そうしたら護熙氏から「一度、3年計画くらいできちんと修理したらどうなのか」と言われたそうで、「いや予算が・・・」と話したら、「きちんと計画書出すなら予算はつける」と言ってくれて、本当に数年かけて修理をされたとのこと。
今では雨漏りもなくなりました、とおっしゃっておられましたが、現在でもこういう”強い”細川・松井エピソードが生まれているんですよ皆さん(ゴクリ)

昨年、1688年に建立してから「333年」を記念して、3月3日限定で記念御朱印的なものをつくって来場者に渡したりした(ナニソレ楽しそう)

勝龍寺城銅像について

忠興&ガラシャ像を作成するとき、若い頃の忠興の顔をどうすればいいのか悩んだらしい。
なんせ、壮年~晩年の肖像画しか残っていないので。
そこで、忠興の像と、護貞氏の若いころの顔をコンピュータでミックスして、顔をつくったらしいww
すげぇ力技wwww
実はまだ見に行ったことがないので、今度行くときには忠興の顔に注目しようと思います。

杵築市

行政の方に、木付城の御城印に一筆もらいたいって依頼をされたことがある。
字もうまくないし遠慮したい旨を伝えたが、松井家のご子孫に是非!とのことで、断れずに書いたのだそうなw
また、御殿跡がほぼそのまま残っているそうで、今後財政が許すときに再建したいと市は希望しているのだとか。

あと、八幡奈多宮にはたくさん鳥居があるのだそうだが、その一つは興長が寄進したものだとか。
どこのことを言っておられるのかメモが残っていないが(あかんやん)、どこかの手水舎も興長が奉納したものが残っているのだとか。

各地に寄進したものとかが残っていること、さらにそれをきちんと調べて子孫たる葵之氏が訪ねておられることが本当にすごいなぁ。

玉名市

玉名市の立願寺温泉、匹野神社の参道には、「長岡筑後守直之」と名の入った灯篭が残っているのだとか。

堂本印象の細川ガラシャ

大阪玉造の細川屋敷跡にある教会にて、ガラシャとの縁を感じて、堂本印象にガラシャの絵を描いてもらうことになったらしい。
護立氏は印象とも交流があったので、彼から「ガラシャの肖像など残っていないし、どうやってイメージしたらいいか」と相談があったので、自分の娘で一番若い三女(葵之氏の祖母)を紹介したところ、八代まで取材に来たのだとか。

春光寺

現在、松井家の菩提寺である春光寺には、ガラシャ他、細川家関係者の位牌をお預かりしている。
ある時、もともと泰勝寺にあったものを預かることになったそうで、現在は九曜紋をあしらった専用の棚を作ってそこに安置しているらしい。
(先代のご住職はあまり興味がなかったようですが、代替わりしたので、こういう側面をアピールするようにこっそり葵之氏が言ってるらしいw)

松井家関係者の方たちからの意見

以前、事務員さん(松井文庫のスタッフさんってことかな?)も言っていたが、松井家は初代の康之と二代の興長のときに、家格というか、家の方針が定まったのだろうと。
もちろんその他の歴代当主の頑張りもあったが、この二人がぶれない礎を築いたってことを、今の松井家関係者の方も実感されているってこと、なんだかじーーーんとしました。

北岡の土蔵のカギ

北岡にあった土蔵について、めちゃくちゃデカいゴツいカギがあったのだが、その管理を細川家から(護立氏から?もしくは護貞氏?)明之氏が任されて、八代でお預かりしていた。
必要な時は、そのデカいゴツいカギを八代から熊本まで持っていかなきゃいけなくて、簡単に車で移動できるようになるまではかなり大変だったそう。

また、この蔵には大量の古文書があったそうだが、熊本大学におられた松本雅明先生から「早く移した方がいい」と助言をもらい、熊大図書館へ移すことになったそうな。
そんな松本先生(お名前からガメイ先生と呼んでいたと、葵之氏はおっしゃってました)が東京に来られた際、護立氏が横浜の中華をご馳走されるってんで、葵之氏も同席されたそうです。
葵之氏は松本先生の弟さんと付き合いがあり、先生がたいそう大酒飲みであることを知っていたそうですが、先生はその食事の席では一滴も飲まなかったそうで。
さすがにお殿様の前では・・・って感じだったらしい。すごい話だ。

八代市立博物館の名物?双六について

こちらは昨年「家老の忠義」を上梓された学芸員の林千寿氏が作られたものだそうな!
「家老の忠義」めっちゃいい本なので、読まれたことない方は是非!!!!

能について

13代明之氏は、めちゃくちゃ能に詳しかったらしく、ほとんどのことを教えてくれる博学な護貞氏も「能については明之氏に聞け」と言っていたくらい。
また、祥之氏も幼いころから能のレコードを子守唄にして過ごしていたそうで、能で身を立てていた(調べたところ、金春流重要無形文化財保持者だったそう。すげぇ・・・)
熊本には「松融会」という金春流の団体があるのだそうだが(祥之氏が設立された?)、これは護立氏が松井家の能舞台で『融』の演目を舞った縁で名づけられたものらしい。(もうホント、松井家の細川家へのリスペクトすげぇな)

八代の臥龍梅について

細川オタクならご存知、三斎ゆかりの八代の臥龍梅。
その梅の横には「末代まで枯らすな」という石碑が残っていて、松井家はこの梅の「梅守」でもある。
最近元気がなかったので、樹木医の協力を得て処置したところ、今年は大きな花が力強く咲いてくれたのだとか。
確かに以前訪れた際は、素人目にもちょっと病気がちなんだろうなってわかる様子で、私もこっそり心配していたのですが、よかった!
今後のために挿し木?もされているとかなんとか。

八代市のお偉いさんたちに対するお願いについて

講演会の前日には、八代市長や議長等々、行政のトップの方たちが展覧会にお越しだったようで。
「八代の宝が東京で展示されるなんてすごい!」と感動されていたところ、すかさず「もっと八代市民に、この宝の価値をわかってもらって残していかねばならない。市民は入場料無料とか、色々施策を考えてほしい!」とお願いされたそう。
単年度契約の嘱託館長なので、来年度辞令がおりるのかわらないが(笑)尽力したいっておっしゃってました。

こぼれ話

ところで講演会場へ入場する際、列に並んでいたら後ろの方でお上品な感じの女性に、主催者側のスタッフさんがお声をかけてらして。
お名前を聞かれていたのですが、さらっと「近〇です」っておっしゃっておられて・・・・!
いや、さすがに私もいい年した大人なので後ろを振り返って見ることはしませんでしたが、さすが細川家主催(?)の講演会・・・
親戚とはいえ、公家・旧華族の近〇家の関係者の方もおられるなんて・・・・めっちゃビビった・・・
(と、いうか、帰宅後に検索したところ、もしかして、もしかしたらご当主夫妻だったのかも・・・・ひぇ・・・・いやまぁ、こちらのご当主も葵之氏とは従兄弟同士ですから、来られてても不思議ではないわけですけども・・・)
私は気づきませんでしたが、その他にもそういった上流階級(といっていいのかどうか)な方々がおられたんだろうなぁ・・・
普通に私服で突撃した自分の場違い感たるやww
(畏まった恰好で行こうという意識がゼロだったし、久しぶりにお出かけできるしと思って好きな服着て行っちゃったよww)

あ、あと、おそらく熊本大学の稲〇先生も来ておられましたねぇ。
先生わざわざこの講演会に合わせて熊本から来られたのかな?
もちろん、葵之氏とは顔見知りでしょうしね。

グッときた言葉

葵之氏は講演中に何度もオタク心をくすぐる語録を残してくださいました。
以下、全て講演を聞きながら私がメモした内容で、この通りにおっしゃっておられていたのではなく、意訳ですのであしからず。

歴代当主たちのことを考えると、とにかく「細川家のために動く」ということに尽きる。だからこそ、今回の講演会のタイトルは「細川家にお仕えして」とした。

祖父である明之からはとにかく「ご先祖様に顔向けできないことはするな」「お道具類にはご先祖様それぞれの想いが宿っている」「どんなに困窮しても動かしちゃいかん(=売ったらダメだ)」と言われた。そしてその通り、祖父も戦後の経済的に苦しいときにも売らず、その方針をつらぬいた。

初代からの流れを見ると、何かにつけて「細川家のおかげ」と思うことが多い。

各地の所縁の地を訪ねると、康之・興長が築いた縁から、今でも人とのつながりがある。先祖のおかげ、ひいては、彼らをその地へ導いた細川家のおかげともいえる。

今でも松井家の旧臣の方々からお手紙をもらったりすることがある。


何を話すにも「〇〇のおかげ~」ということをさらっとおっしゃっていた葵之氏。
特に、ご先祖様とそして細川家に対してが一番多くて。
もうそれだけで、オタクは胸いっぱいでしたね。

予定時間を20分オーバーしてしまうほど、色々なお話をしていただきました。
ありがとうございました!

いやぁ、思ったより長くなってしまった・・・
当日お話しを聞きながらメモした内容をもとに構成しているので、順番通りではないし、私の主観や感想が入り混じる内容となっています。
(葵之氏のご発言や意図と異なる内容があった場合は、私が勘違いしてたり曲解しているだけですので。。。)
一応講演会の開始前に、一般参加者の撮影や録画・録音は禁止とアナウンスがあったのですが、内容を外部に出すことについては触れられていなかったので、ひとまずこのままアップしておこうかと思います。
有料の講演会でしたし、まずい内容(特に近〇家関係?汗)とかがある場合は、削除なり修正なりするので、こっそりお知らせください・・・