細き川に溺れたい

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長岡京ガラシャ祭歴史講演会「戦国を駆け抜けた志水氏〜細川家に仕えた西岡衆〜」:参加してきた


11月5日(土)に、長岡京ガラシャ祭2022オープニングイベントとして開催された歴史講演会「戦国を駆け抜けた志水氏〜細川家に仕えた西岡衆〜」に参加してきました。


およそ1年前、昨年度の歴史講演会にも参加しておりまして、↓のとおり記事にしました。
長岡京ガラシャ祭歴史講演会「戦国時代の西岡と藤孝・光秀~熊本に伝わった古文書を中心に~」:参加してきた - 細き川に溺れたい
昨年は、熊本大学の稲葉先生による西岡衆、主には神足氏と築山氏のお話を聞きました。

で!
今年は同じ西岡衆、かつ勝龍寺以来の細川家家臣の一家、志水氏がテーマ!!
志水氏については、以前ご子孫の方が書かれた論文を読んで興奮した記事↓を書きましたww
志水宗加による細川幽斎追悼文 / 論文紹介 - 細き川に溺れたい
今年も聞きにいくしかないでしょう!!!ってことで喜び勇んで行ってまいりました。

講師について

今回お話をしてくださったのは、近畿大学准教授の新谷和之先生。
寡聞ながら初めてお名前を知りましたが、中世・近世城郭や近江の六角氏を中心に研究をされているのだそう。
なんでも、既に院生の頃に指導教員から「志水氏の文書があるよ」って教えてもらってはいて、面白いなと思ったが、その時はしっかり読んでいなかったらしいのですが、今回「志水氏のことで講演をしてほしい」と依頼があって、改めて志水家文書を読んだ、六角氏を研究する自分にとっても嬉しいお話だった、とおっしゃっていました。

そう、今回のテーマである志水氏は、細川家に使える前は六角氏に仕えていたらしいということなんですよね。
それで新谷先生にご依頼がいったということだったのかしら?
非常に丁寧で穏やかな口調で、とても聞きやすい講演でしたね〜

講演内容

講演を聞いての個人的メモかつ備忘録。
今回の講演では、『長岡京市史 資料編二』にて16点が翻刻されている『志水清矩家文書(志水家文書)』を取り上げてた。
志水家文書は全89点あるらしいが、没落したり武士を辞めたりする家も少なくない中、このようにずっと武士を続けた家にこれだけ史料がまとまって残っていることはとても貴重だとのこと。
(このあたり、とてもとても”細川家の家臣らしい”と感じて、思わずマスクの下でニヤけてしまったww)
(主家にも家臣家にも、史料が残りすぎな細川wwwサイコーかwww)

(「ガラシャ祭」と言いながら、あまりガラシャの話はありませんと新谷先生は陳謝しておられましたが(笑)、個人的にはガラシャより志水氏や細川関係の話をいっぱい聞きたいので無問題!!)

志水氏のルーツについては、「近江」か「八幡(現在の石清水八幡宮のあたり)」かどちらか、志水家界隈の同時代史料ではよくわからない。
ただ”九条家小塩荘”に関する史料の中で、志水という名前が散見され、荘園運営に関わる勢力の一つであったと考えられるため、少なくとも16世期始めの頃には西岡にルーツを持っていただろうと。

西岡近辺は交通の要衝でもあって、畿内の混乱の影響をモロに受けてきた。
管領細川家の内部対立(細川高国細川晴元)に伴い西岡衆も分裂したり、将軍家の混乱や、細川家と三好家の揉め事にも振り回されたり・・・
国衆たちは、完全に誰か(どこかの家)に服従するわけではなく、その時々でそれぞれ生き残るための判断を迫られていた・・・志水氏もそう。

足利義輝は幕府再建を目的に、特定の家に頼るのではなく、本来の将軍家の在り方を目指していたので、地方も含めて色んな家を取り立てようとした。
そんな中、義輝の意向に添うかたちで、近江の六角氏は河内の畠山氏と組んで北と南から三好勢を攻める行動をとる。
三好勢と戦う六角氏のもとで志水清久(後の宗加)が活躍していたことが、史料に残っている。
なんでも、志水文書には、六角承禎・義弼父子それぞれから送られた感状が残っているのだそう。
六角氏界隈でも父子両方から感状をもらう例はあまり多くはないらしく、清久が六角氏に重用されていた証ともいえるのではないか。
また、六角氏から清久への伝達経路が”志水清久↔︎平井定武↔︎建部忠利↔︎六角承禎父子”だとわかる文書がフルセットで残っていることもたいへん貴重。六角氏界隈でもないとのこと。
(↑このあたりの史料保存具合が、とても細川だなぁとww)

清久はかなり軍事的に優れていたと思われる活躍をしている。
志水氏は、完全に六角氏の下に従っていたというよりは、六角氏からすると丁重に扱う頼れるパートナーだったように思われる。
ただ結局、六角氏は北から三好勢とかなりいい感じに戦ったのだが、南の畠山氏が教興寺の戦いで大敗したことから、協力関係も瓦解して、六角氏も廃れていくことに・・・
志水氏は、六角氏が勢いを持っていた最後期にからんでいた。

六角氏の後は、三好権力が分裂したことによって、また西岡の地も翻弄される。
松永久秀方を破った三好三人衆の一、石成友通が勝龍寺城に本拠を置いたことで、実質的に西岡地域を支配していく・・・

数年後、足利義昭織田信長に奉じられ上洛、柴田勝家らが石成の籠る勝龍寺城を落とす。
で、ついに細川藤孝登場!!!
志水氏と藤孝の最も早い接点と考えられるのが、義昭が清久に知行を保証する代わりに、有事の際には軍事的協力をするよう要請したこと。奉書として藤孝が清久に伝えたそう。
このときはまだ、義昭の家臣の一人と、一介の国衆、という関係。

義昭上洛の翌年、藤孝は三好義継と池田勝正とともに勝龍寺城に入るが、この時はまだ複数人での入城であることもからも、正式な城主ではない。
実質的に支配していくきっかけは勝龍寺城の普請で、賦役を課していくことで求心力を強化していった。

そしてついに義昭の元を離れ、藤孝は元亀4年に信長からか桂川以西を拝領する。
このことは、細川家が大名家として存続していくことになるきっかけであることは明らか。
藤孝は「長岡」と姓を改めるわけだが、これは内外にこの地の領主であることをアピールする意図もあっただろう。
そして、清久に本地の志水の土地を安堵したことにより、細川家との実質的な主従関係となった。

ちなみに、清久は一時藤孝の元を離れ、義昭の宇治槙島城籠城に従った後に浪人となって、その後に藤孝に取り立てられたという史料もあるが、これは江戸時代に書かれている。
同時代史料では裏付けられず、さらに清久本人が後年記した覚書でも槙島城攻めには言及していないことからも、一貫して藤孝に従ったと考える方が自然では?

細川家の丹後→豊前→肥後の転封にも全て従う。

丹後では、旧勢力を征伐する藤孝に従い軍事的に尽力し、本能寺の変に際しては、長岡直次(沼田光友)が機に乗じて一揆を起こした国人に佐野城を攻められ切腹したときには、松井と共に清久が駆けつけたと。
そのとき、即刻攻め入るべきだと騒ぐ若者たちを、松井と共に「明日には開城するはず」と押し留めた結果、予測通りその夜には開城したエピソードが志水文書にある。
清久の武力だけでなく、知略も感じるエピソード。ただし自分で書いているので自画自賛の要素はある。
(↑の松井は康之ってことでいいのかな!?軍略に長ける康之と清久が、勇む若武者を押し留めるの、滾るな!!!笑)


志水氏は、最終的に肥後の合志・山鹿・玉名に6,000石を拝領。
細川家に仕えて近世を生き抜いた・・・

新谷先生による総括

  • 文書としてはたくさん残っているが、六角氏と志水氏との接点は一時的なものに過ぎなかったであろう
  • 畿内の混乱の中で、その時々でうまいことやってきたからこそ、武士の家として志水氏は残った
  • 藤孝が薄氷を踏むような選択の中で生き残ってきたのと同様に、志水氏も柔軟に時代に対応した

考えたこと

今回は残っている文書から、志水清久の武の側面がとてもフィーチャーされていました。
根付いている土地を守るために、その時々の支配者や攻めてくる勢力に協力したり抗ったり、確かに軍事力がなければ乗り切れなかったことも多かっただろうと想像できます。

でも。
そんな土地に根差していた国衆であった志水氏が、細川家に仕えた後は、一時離れることはあったけど、全ての転封に従うのですよね・・・・

これ、めちゃくちゃ妄想なんですけど。妄想なのはわかっているんですけど。

清久は文化的な能力も持った人物だったんですよね(前述の記事を参照ください)
戦乱の世の中で、新たに西岡の地を支配することになった細川藤孝
彼が今までの支配者たちと何が違うのか。付き従うに足る人物だと清久がどこをもって判断したのか。

やっぱり、軍事的な能力や機を見る能力はもちろんのこと、文化的な側面の影響も大きかったのではないかなぁ。

血生臭い世の中にあっても、文化への情熱は絶やさない藤孝に共鳴する部分があったのではないかなぁ。

今回の講演では清久の文化的な功績は何も触れられなかったのですが、だからこそ、余計にこの部分を考えてしまいました。

藤孝の魅力は、複雑な人間性にもあるのではないかと・・・・清久もそんな魅力にハマった一人だったと考えたい細川クラスタです・・・
(結局幽斎さんに話を持っていく悪い癖)


っふぅぅ。今回も長くなりました(笑)
この歴史講演会、今後もじゃんじゃん細川界隈の話を聞かせてほしいなぁと思っています!!