細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

圭西堂とは?


津々堂さんのブログで、「圭西堂(前建長寺住持・忠興母光壽院甥)」という表記を発見・・・
■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (1) - 津々堂のたわごと日録


沼田麝香の甥 = 雲嶽霊圭(あるいは雲岳霊圭)ですよね!?
圭西堂は霊圭ってことでいいのかしら!?


上のブログでもそうだが、金地院崇伝と関わりがありそう?書状のやりとりがある。↓
洛中生息 洛中生息 きょうにまなび、きょうにならう <学習帳>


ここには「南禅寺圭西堂」とある。


津々堂さんのブログで紹介されている文書の中では、「圭長老」や「圭首座」という感じで出てくることは多いけど「圭西堂」では上の記事1つしかヒットしない・・・

ネットで検索してもごくわずかだが、小倉のお寺のHPなどで「豊前の圭西堂」という表記があった。

コトバンクによると「西堂」とは”他の寺院の前住職”のことらしい。
なので、「圭長老」や「圭首座」のときはまだ南禅寺273世のときで、住職を辞した後に南禅寺以外の場所では「圭西堂」になっているってことか、な・・・?
(あるいは津々堂さんの言っている建長寺の住持?ただ、現在も残っている「建長寺」は鎌倉のお寺のようなので・・・建仁寺とかの間違いなのかな?)
このあたりの常識に疎すぎてよくわからんが、こういうことっぽい?

細川家が豊前に移った際に、霊圭も一緒に京都から九州へ移ってきたということなのかしら?

霊圭のことはなかなか情報がなくて、ブログ記事にもまとめられていない・・・
こんな細かい情報だけど、とりあえず記録しておきましょう。
あぁ、なんかの資料にごそっと雲嶽霊圭の情報出てこないかなぁ!笑