細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

玉甫紹琮について調べてみた / 論文紹介

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以前この記事で、細川家に関わる僧侶たちについて触れましたが、その中の一人について掘り下げてみます。

玉甫紹琮は、細川藤孝/幽斎の実弟
三淵晴員の息子の一人で、おそらく幽斎さんと同母で、清原宣賢の娘である智慶院が生んだらしい?
1546年生まれで、1613年に没。幽斎さんとは12歳差で、弟である梅印元冲とは13歳差。
(父である三淵晴員は1500年生まれ1570年没なので、彼が40代半ばの頃に玉甫は生まれてますね)
兄弟の多く(藤英、藤孝、梅印)は自分より先に死んでしまってますねぇ。
末弟とされる長岡好重は1617年に亡くなったそうなのだが、彼は細川家家臣となっていたのであんまり京にはいなかっただろうし、そこまで交流はなかったかなぁ。好重は享年57歳らしいので、梅印と同年もしくは1560年生まれ?になるのかな。

大徳寺関連

さて、玉甫紹琮は禅僧です。細川家関係者の僧の例にもれず、臨済宗です。
千利休・秀吉関連で名前が出てくることがある大徳寺117世住持の「古渓宗陳」の弟子にあたり、玉甫自身は大徳寺130世住持でした。
古渓宗陳が開山した総見院は、古渓が配流された後に玉甫が継いだので、二人が両祖とされているのだとか。
昔のヤフオクこんなものが出品されていたようですよ。
説明文によると、玉甫は1613年6月18日に没したとあるな。

甥である細川忠興が父・細川幽斎の菩提を弔うために、玉甫を開祖として高桐院を建立したことは有名ですね。
インターネットで「玉甫紹琮」を検索すると、ほぼほぼ高桐院のことしかヒットしない(苦笑)

玉甫のトピックとして、後は「沢庵宗彭」との関係ですね!
以下の論文を見つけたので、読んでみた。ここから読めます。

船岡誠, 沢庵と武家, 北海学園大学人文論集, 23・24, 121-140, 2003

沢庵の弟子が記した「東海和尚紀年録」によると、沢庵は30歳の慶長七年(1602年)に細川幽斎に和歌百首の評を乞うたと出てくるが、裏付ける証拠はないとのこと。(これが細川家関係者とのつながり見える最初?)
ただし、幽斎さんの弟たる玉甫が「一派の彦老」であり、沢庵のことを早くから「法器」として評価していて、大徳寺153世として沢庵を推薦したりしているので、沢庵と幽斎・玉甫兄弟とのつながりはあったように思えますよねぇ。
(ま、沢庵はその後わりとすぐに住持をやめちゃうらしいんですけどもw推薦した玉甫の立場ww)

絵師との関係

高桐院関連の話題を避けながら(笑)インターネットで「玉甫紹琮」を調べていると、2名の画家との交流が見えてきたので、メモしておきます。

長谷川等伯

一人は長谷川等伯
天正17年(1589)長谷川等伯が描いた稲葉一鉄像には、玉甫が賛を書いています。京都の智勝院が所蔵しているものらしい。
参考

文化遺産データベース↓では、作者は長谷川等伯と断定できないけれども、絵のタッチや後年この一鉄像に賛を書いている玉甫の像を等伯が描いていることからも、その可能性は十分あるとされています。
文化遺産データベース


なんで一鉄像に玉甫が賛を?と不思議に思うけれど、稲葉家と細川家は、細川忠利時代にかなり親しいことが知られていますね。
一鉄(稲葉良通)の娘が、明智光秀重臣として有名な斉藤利三に嫁ぎ、その娘が徳川家光の乳母としてチョー有名な春日局ですね。
で、春日局の息子である稲葉正勝と忠利がめっちゃ仲良かったわけです。春日局との書状のやりとり(金銭的なやつねw)も残っています。
とうらぶファンには、篭手切江くんを通して両家のことを知った方も多いのでは?
明智家と稲葉家、明智家と細川家との関係を考えれば、稲葉家と細川家も自然と近づいていたことも十分考えられそう。


で、前述の玉甫紹琮像は高桐院に残っているもので、慶長14年(1609年)、等伯が71歳のときに描いている。
(キャプチャの絵。このページにもその像が載っていました)
どうかな?幽斎さんと似てたりしますかね?笑
この作品は、等伯の最晩年に描かれたものでもあるらしく、やっぱり等伯とけっこう親しかったといえそうですよねぇ。
この讃は玉甫本人が書いているそうで、自分が死んだらこれは笑具としてくれって簡略的な筆で書かれているらしい。飾らない人っぽいですね。

雲谷等顔

で、もう一人は雲谷等顔。
以下の論文によると、高桐院に残る画(高士図座屛)は玉甫と等顔とのつながりを示すものだとのこと。

江村知子, 展覧会評「没後四〇〇年 雲谷等顔」展, 美術研究, 427, 79-84, 2019

ここから読めます。



残念ながらこの絵がどんなものなのかは、画像検索では発見できなかった・・・
論文では、

この作品は風格のある漢画画題が小さな画面の中に凝縮されているように見受けられた。

って評されていて、どんな絵なのか大変気になるわけなのですが。。。

と、このブログを書いている間に中古で手に入れた高桐院の冊子にこの図が載ってた!グッドタイミング!笑
ちょろっとだけ写真撮ってみた↓
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等顔は基本的に水墨画をよく描いていたそうで、彩色のものは珍しいのだとか。
写真で見るとけっこう傷みがひどそうかな?
この冊子自体は10年以上前に発行されているようなので、上記の2019年の展覧会では多少なりと修復された状態だったりしたのかしら?


こちらも詳細がわからないけど、雲谷等顔が描いて、玉甫紹琮が賛を書いている「達磨図」というものもあるらしい?
コレかな?メトロポリタン美術館のHP?
「遠孫比丘紹琮謹讃」と書いてあるっぽくて、うん、確かに「紹琮」ですね。
肖像画の讃もそうだけど、玉甫はあんまり字がうまくなそうで親近感が持てるわww(失礼)(あえて簡素な字体にしているのだろうけども)(幽斎さんと比べるとさ、ホラ、ね?)
英語の紹介文に

The inscription (read left to right, the reverse of the standard method of reading Chinese or Japanese) is by Gyokuho Jōsō (1546–1613), 130th abbot of the Zen monastery Daitokuji in Kyoto.

とあるので、玉甫で間違いないようです。
これはアメリカ人のコレクションになっているんですねぇ。玉甫の讃が海を渡っている・・・!笑



桃山時代の絵画史における四大巨匠とは、狩野永徳長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らしいのだけど、玉甫はそのうちの2名とわりと親しかったといえるっぽい?


友松については、幽斎さんと英甫永雄とが親しかったんですよね。建仁寺に作品が残っているので、幽斎から英甫に友松のことを紹介したりした可能性はありそう。
四大巨匠のうち、3人をおさえている細川家界隈さすがですね(笑)


生涯のことはよくわからない・・・

正直、玄圃霊三や英甫永雄、梅印元冲に比べると、どういう生涯を送ったのか的な情報がないんですよねぇ。
いや、沼田麝香の甥であり、玄圃の指示のもと天授庵を再興した雲嶽霊圭よりはマシなんですけども。。。


ところで、つい最近細川ガラシャ周辺を研究されている日向志保さん(ひなほ (@ShihoHyuga) | Twitter)が「玉甫紹琮によるガラシャ七回忌 : 戒名「秀林院殿」をめぐって」という論文を発表されています。
残念ながらまだ内容を確認できていないのですが、これは読まねばいけませんね!(まだ読んでないのかよ)
この論文に玉甫の生涯とか触れられてたりしないかなぁ。
また玉甫についてわかったことがあれば、まとめようと思います。