細き川に溺れたい

   Volo equitare in unda FOSOCAUA... 細川家に関する独り言を綴るだけ

宮川智光院とは・・・誰だ!?


以下の論文を読んでいる過程で、清原宣賢の娘として「宮川智光院」なる人物がいると知りました。

金子拓, 室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英, 東京大学史料編纂所研究紀要, 12, 67-84, 2002


もともとは三淵藤英のことを知りたくて手を出した論文です。
大河ドラマ麒麟がくる」で谷原章介さん演じる藤英に興味を持った方も多いのでは?
こちらから全文読めるので、気になる方は是非。藤英以前の三淵家のことも含めて、とてもよくまとまっている論文だと思います。

論文読んでて横道にそれた

で、藤英のことはいつか記事にするとして今回は置いておいて。
この論文で取り上げられている『元亀二年記』の記事にこんな内容がありまして。

飯治飯川秋共令同道牧殿へ行、三和三淵藤英母儀・宮川女房衆於彼所見参(五月二十七日条)

「飯治」とは「飯川秋共」のことで、清原宣賢の息子であり、細川クラスタには「一両斎妙佐」としてお馴染みでしょう。
「牧」は「牧庵」のことで、こちらも宣賢の息子である「等貴」という人物。
「三和母」とは「三淵大和守の母」のことで、藤英の母のこと。
「宮川女房衆」は『慶長日件録』の記事より「宮川智光院」という「浄居院=清原宣賢」の娘を指していると論じられている。

宮川智光院とは???

「慶長日件録」を国会図書館のデジタルコレクションで見てみました。該当箇所は79コマ目。「智光院」だけでなく「智孝院」や「智廣院」とも書かれている。
慶長日件録 - 国立国会図書館デジタルコレクション


「三和母」が藤英の実母なのか、藤孝の実母なのかは不明。昔は「母」としか記されていなくても、義母の意味になることもあるらしい・・・
一般的に、藤英の実母は養源院(三淵晴恒の娘?あるいは徳大寺家にゆかりの人?)、藤孝の実母は智慶院(清原宣賢の娘)とされている。
が、以下のブログで記事にされているように、どうも宣賢には2人の娘がいて、片方が足利義晴の侍女で智慶院(藤孝母?)、片方が三淵晴員の側(藤英や宮川尼の母?)という説もあるらしい・・・
藤孝事記 古典文庫564 - 津々堂のたわごと日録


・・・・・・・・・??????????????????

こんがらがってきましたよぉぉぉぉぉ(笑)

宮川といえば

個人的にこの界隈(細川に近しい人物)で「宮川」と言われると、すぐさま思い浮かぶのは藤英と藤孝の女きょうだいである「宮川尼」ですよね?
残念ながら宮川尼の法名がわからないので確証はないけれど、彼女の夫である武田信高は若狭国の”宮川”という地の新保山城(霞美ヶ城)で城主をしていたらしく、彼には「宮川殿」という別名もあったらしい。
であれば「宮川女房衆」というのは「”宮川殿=武田信高”の妻」という理解でもよいのでは・・・!?
「宮川女房衆」が清原宣賢の娘ではなく「孫娘」だとすると、母親たる養源院もしくは義母たる智慶院と一緒に、おじ(牧庵=等貴、三和母からすると男きょうだい)の家に行ったら、別のおじ(飯川秋共)と清原国賢(宣賢からみて孫)がいた、みたいな感じ?ありえそうじゃねぇ?

それとも宣賢には、上述の2名以外にも別の娘がもう一人いたのだろうか・・・

あるいは、「光」「孝」は別にしても「廣」という字ならば、「慶」と誤読あるいは誤字していてもおかしくないなぁとも思ったりしたんですよねぇ・・・
つまり「智光院」=「智慶院」だったり・・・・???

というか、浄居院=清原宣賢の息女としてあがっているのは「智”孝”院」なんですよねぇ。
基本的に他の記事には「智光院」となっているのがほとんどでなので、わざわざ「孝」の字を使っているということは、「宮川智光院」と宣賢の娘である「智孝院」は別の人物なのかも・・・!?


うーーーーーーーーん・・・・・・

わかりませんな!!!(笑)

ちなみに『元亀二年記』の著者は清原宣賢の孫である「清原国賢」で、『慶長日件録』の著者は国賢の息子である舟橋秀賢らしいっす。
清原家・舟橋家は吉田家とももちろん近しく、さらに藤孝や藤英ともたいへん近しいし、けっこう細川家界隈の人物も登場するわけなんで、余計こんがらがるよねぇ。


藤英について調べていたはずなのに、突然あらわれた「宮川智光院」に関心を持っていかれた勢いで記事にしてみたww
有識者の皆さん、ご存知だったら教えてください・・・宮川智光院 is 誰・・・・


≪2021.11.23追記≫
やっぱり宮川尼=智光院らしいぞという記事をUPしました!気になる方はこちらからどうぞ〜↓
hohshoy.hatenablog.com